ルカ15.15-24
「稼げる投資」とか「稼げるAIアプリ」に飛びつく僕らです。また、幸せになれると思って彼氏や彼女、結婚を考えるのが人間です。「神様を忘れてはいない」と言うけど、稼げるツール>神様、恋愛結婚>神様、自力>神、です。言い方は「どうか、ご容赦ください。」と丁寧だけど、実際は「お断り」しています。それが神様にとってどんなに侮辱的なことか、悲しみであり怒りであるか、イエス様は例え話で言われます。
"イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」
するとイエスは彼にこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いた。
宴会の時刻になったのでしもべを遣わし、招いていた人たちに、『さあ、おいでください。もう用意ができましたから』と言った。
ところが、みな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうか、ご容赦ください。』
別の人はこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それを試しに行くところです。どうか、ご容赦ください。』
また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』"
ルカの福音書 14章15~20節
神様とお会いし、神様と時間を過ごし、みんなで集まってその言葉を聞き、食べ、感謝し、交わることほど祝福されることはありません。それは永遠の幸せです。神様の宴会に比べれば、この世の稼ぎや幸せは霧みたいに消えていきます。だのに、自力でこの世の幸せ(だと思い込んでいること)を選びたがるのが僕らです。
最初は力のある人たちが招かれていましたが、主人は怒って「貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちをここに連れて来なさい。」と言われます。
"しもべは帰って来て、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちをここに連れて来なさい。』"
ルカの福音書 14章21節
自力で幸せになると思っていた人は永遠の祝福を失います。この話はリアルな話です。イエス様は僕らを神様の宴会に招いてくださっています。それは、この世のどんなことよりも価値があります。イエス様と交わることを「必要なことは一つだけです。」と言われます。(ルカ10.42)自力で幸せになれると思い込んでいる人は、それを断り、この仕事やお金や恋愛や結婚を優先するようです。神様をないがしろにする人の末路は憐れです。イエスは言われます。
"言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません。』」"
ルカの福音書 14章24節
収穫を生み出す畑よりも、耕す牛よりも、素敵な結婚相手よりも僕らを幸せにし、祝福し、愛し、もてなしてくださる方がいます。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」(15)神様の宴会は地上でも始まっています。僕らが集まり、2人でも3人でも神様に感謝し賛美するところにイエス様はおられます。神様に感謝して一緒に食べるところにイエス様はおられます。一緒に礼拝することは天の喜びの表れのようです。天の宴会の喜びは地上でも注がれ始まっています。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」ハレルヤ!
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