2025年3月19日水曜日

ルカ10.25-37 あなたも行って同じようにしなさい 礼拝メッセージ

 ルカ10.25-37 あなたも行って同じようにしなさい 礼拝メッセージ


●イントロ できない私


年に何回か神愛園に行って礼拝メッセージをさせていただいています。

行ったことがある人はわかると思うんですけど、神愛園の玄関には大きな絵があるんですね。それが良きサマリア人の絵です。


祭司もレビ人も倒れている人がいても見て見ないふりなんだけど、サマリヤ人だけが死にかけているこの人を介抱し、自分のように愛し、助けている絵です。僕は最初の頃、この絵の前を通るたびに良心が痛みました。自分はできないなぁって、毎回思いました。動けない高齢者を自分のように犠牲を払って愛する愛は自分にはないなぁって思いながらその玄関でその絵を見ながら、神様から責められている感じもありながら奉仕させてもらっていました。

「先生、ありがとうございました」とか言われて1時間もせずに帰るのですが、尊敬するのはむしろ夜勤をして、ギリギリのスタッフで回しながらお世話をしているスタッフの皆さんです。むしろ、スタッフの皆さんにありがとうございます、と言いたいです。自分もちょっとだけ自宅介護を経験して、そん大変さを知りました。福祉、介護、医療関係の皆さんを尊敬します。


イエス様は倒れていいる人を自分自身のように愛するサマリヤ人の話の最後におっしゃいます。


37節

「あなたも行って、同じようにしなさい。」


僕はこの話を読むと、毎回、「自分さえよければいい」というか、事なかれ主義の自分を指摘されている感じがします。正直にいうと共感するのは、見て見ぬふりをして避けて通る祭司やレビ人です。


(31-32)

たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。

同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。


誰かが助けてあげたらいいのに。とは思うけど、でも自分も用事があるし、祭司だから血に触れてはいけないって律法もあるし、いくらでも言い訳が出てきます。そして、結局は道の反対側、なるべく遠く、近寄らないように通り過ぎていきます。祭司やレビ人の気持ちがすごくわかります。


あの人を助けるのは僕の責任範囲じゃないな、バウンダリーを守りましょうってあの先生が言っていたな、とか、急にイエス様の言葉よりも、最近習った誰かの教えを上にします。

ところが、イエス様はおっしゃいます。「あなたも行って、同じようにしなさい。」


この箇所を読んでどう思いますか?


①「はい分りました。やります」

②「やっぱ無理です。できないです」


答えには③番目があります。これは今日のメッセージの中心です。


「私には無理ですが、イエス様はできます」

「イエス様だけが全てを犠牲にして愛してくださいます」

「私の中に生きておられるイエス様、あなたがなさってください。この体を用いてください。」


今日の結論はこれです。

私にはできません。このサマリア人のような無限の愛は、イエス・キリストの愛そのものです。今日のメッセージのポイントは私にはできないけど、イエス様がさせてくださる、です。

命を捨てて隣人を愛してくださったのはイエス様です。命を捨てて罪人を愛してくださったのはイエス様です。それが結論です。この体をイエス様の器官として用いてください。この心をイエス様の心としてください、イエス様の弟子にしてください。これが今日のメッセージの結論です。


●正しさをアピールしたい律法学者


聖書は文脈、話の流れの中で読むとよくわかります。イエス様はどんな状況で、誰にこの話をしているか、が大事です。まず、誰に言っているか?律法の専門家です。しかも「自分は正しい」と主張している専門家との会話です。そして、イエス様を陥れたい、イエス様に失敗させたい、恥をかかせたい、告発したい、と狙っている人です。彼は言います。


(25)

さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」


この質問は、平たくいうと、「どの律法を守り言われた通りクリアしたら永遠の命をもらえますか?」ということです。皆さんが旧約聖書の先生に聞かれたらなんて答えますか?「遠藤さん、何をしたら天国に入れますか?何をしたら永遠の命をもらえますか?」


僕なら、「律法を守ったら救われるのじゃなくて、イエス様を信じる人は罪がゆるされて、永遠の命をもらえますよ」って答えます。ところがイエス様はそう言いません。イエス様の答え方はお手本です。


イエス様の答え方の素晴らしいところは、相手が言いたいことを汲んで、相手に合わせて答えることです。相手の質問の気持ちは「教えてほしい」ではないです。

むしろ、この会話をしてイエス様を陥れたい、間違っていることを言わせたい、恥をかかせたい、ということです。そして、それによって、「私は正しい、私こそ律法の専門家」といいたい気持ちです。


そう書いてあります。

25節は「イエスを試みようとして言った。」

29節は「しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。」


イエス様はわかっています。それで、逆に質問するんですね。


(26)

イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」


専門家って質問されるの大好きなんですよ。教えたがりです。僕も一応聖書の先生の端くれですが、聖書の質問されたらテンション上がります。眠たいなぁとかだるいなぁとか思ってても、聖書の質問のラインとかくると、急にやる気出ます。


この専門家はさらに、イエス様を陥れたくて、それで自分の正しさをアピールしたくて答えます。チャンス到来です。自分の正しさ、自分の知識の深さを発表する時が来ました。専門家らしく答えます。


(27)

すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」


この答えは見事に旧約聖書を要約しています。イエス様は正しい、とおっしゃいました。


(28)

イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」


●自分はできる、という間違い。

次が大事です。イエス様は「それを実行しなさいそ。うすれば、いのちを得ます。」とおっしゃいました。知識だけじゃなくて、正解を言えるだけでなく、その通りやりなさい、です。

この学者の問題は頭でっかちだったことです。愛について教えながら愛してなかったことです。正確な知識を持っていながらそれを表していなかったことが問題だったんです。自分は正しい、自分は神様も隣人も愛しています、と言いたかったようです


(29)

しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」


それでイエス様は良いサマリア人の話をするんです。

この人が言いたかったのは、私、家族を愛してます。律法の通り仲間を愛しています。イスラエル人たち愛しています。自分はよくやってますけど違いますか?そういうアピールをしたいようです。


彼は言います。「では私の隣人とは誰ですか?」家族を愛しなさい、と言われたら、はい愛してますよ、と言いたかったようです。同胞愛しなさい、イスラエルを愛しなさい、と言われたら、はい愛してますよ、と言いたかったのだと思います。そんな彼に、イエス様は隣人を愛せてはいないことを示すために、この良いサマリア人の話をされました。

このサマリア人の話は、僕らが隣人を愛せてない、と言うことをはっきりさせるための話です。

僕らが神様の律法を守ることができ図、愛がないことを示すための例え話です。


●良きサマリヤ人のたとえ


(30)

イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。


途中で強盗に襲われて、服も剥ぎ取られ、半分死にかけの状態で放置されされました。

この強盗たちはただ金を奪うだけじゃなくて、当時の服はお金になったので全部剥ぎ取って放置です。半殺しです。助けが来なかったら死ぬしかない状態です。


(31)

たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。


律法学者とか、話を聞いてる人たちは「お、祭司が来たなら助けるんじゃない?」って一瞬期待したと思います。祭司って、神様の教えを知ってる人だし、「隣人を愛しなさい」とか、「困ってる人を助けるのが大事」って教えている人だからです。

って思ったら、「彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。」です。この祭司、葛藤はあったかもしれないけど、わざと反対側を通り過ぎました。


理由あると思います。ここで半殺しになってるって事はここにまだそのあたりに強盗がいるかもしれない。ゆっくり助けてたら、次は自分も半殺しにされるかもしれないと思ったかもしれません。祭司は宗教的に血に触ってはいけないし、死体に触ったいけないし、そういう律法的な理由もあったかもしれないし、とにかく助けるといろんな不具合が出てくるんです。天秤にかけたらやっぱり自己保身を選びます。


次に登場するのがレビ人。

(32)同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。


彼も倒れている人を見たとあります。レビ人っていうのは、祭司のサポートをする人たちで、神殿の管理とか手伝いをしてた人たち。つまり、こっちも神様の教えに関わってる人です。でも、このレビ人もスルーです。


さっき、律法学者は「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」と正しい答えをしました。それによるとこの二人は祭司もレビ人も永遠の命を持ってないってことです。神の命令を守っていません。この祭司にもレビ人にも永遠の命はありません。


話はここで終わりません。イエス様は衝撃的な展開を用意しました。


次に登場するのがサマリア人。僕らは普通にサマリヤ人って読めますが、ユダヤ人たちは、この言葉を言わないです。皆さん、本当に嫌いな人、嫌なことは口にできない感覚わかりますか?


後で、イエス様が誰がこの人の隣人になりましたか?ってイエス様が聞くと、相手は、サマリヤ人です、と答えられません。サマリヤ人、という言葉は口にするのも嫌なほどです。


(36-37)

この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」

彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」


それほど、「忌み嫌うべき存在」「気持ち悪い存在」でした。歴史的にも、ユダヤ人とサマリア人は対立してて、サマリア人は「民族的に汚れた者」みたいに見られてました。もう、生きてること自体が「悪」みたいに思われてた感じです。


その気持ち悪いと思っていたサマリア人が倒れている人を助けます。


(33)

ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。


サマリア人は「隣人を愛する」ってことを行動で表しました。


(34)そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。


で、サマリア人は男のところに行って、傷を見て、状態をチェックして、応急処置をしました。服は全部奪われてたから、もしかしたら自分の服を裂いて包帯代わりにしたのかもしれません。そして、オリーブ油とぶどう酒を使って傷を手当てしました。オリーブ油は保湿と鎮痛、ぶどう酒は消毒のため。

傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで」(34)とあります。この「注いで」って言葉がちょっとだけポタポタって感じじゃなくて、惜しみなくバシャーって注いでいます。


(35)次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』


しかも、このサマリア人、ただ連れて行っただけじゃなくて、次の日まで、一晩中そばにいて世話しました。傷だらけで死にかけている人をちゃんと布団に寝かせて、食事も水も用意して、傷の手当ても続けて、夜通し付き添いました。そこまでやりました。ほとんど寝れなかったと思います。しかも、相手はユダヤ人。自分はサマリヤ人です。相手は自分を嫌って避けている人です。 嫌われている人が、実際には「隣人を愛する」神様の命令を実行してました。

で、次の日、彼は宿屋の主人に2デナリ渡します。「デナリ」って当時の労働者の1日分の給料です。後の時代に発見された宿屋の料金表によると、1泊の宿代が1/32デナリだった説があります。また、1日の冬至の生活費は1/12デナリだった、という説もあります。つまり、このサマリア人は2か月も泊まれるお金と生活費を払った可能性があります。


ただの「ちょっと親切な話」でなく「ここまでやるか!?」っていうレベルの愛です。イエス様はあえて、完璧な愛の話をされました。しかも自分を嫌っている相手に対してそうした、という話です。

「困ってる人にお金あげました」という話とはレベルが全然違うことがわかります。誰がこれこんなことできますか?って話です。敵を祝福し、敵のために自分の全てを捧げるレベルです。


僕らは自分のことは大事にします。なるべくいい病院探して行って、自分にとってベストなケアを受けようとします。でも、この話のサマリア人はその愛を「敵」に対してやってます。それで、イエスがここで質問します。


(36)この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」


自分を避け、自分を嫌う相手に「犠牲を払って」「惜しみなく」「限界なく」「必要がある間ずっと」あすることができますか?とイエス様は問いかけているようです。律法学者は答えます。


(37)彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」


律法学者がその後なんて答えたか、あえて聖書は書いていません。

普通の人なら、「いや無理です」ってなります。言われた瞬間に気づくはずです。

このときに「私にはできません、こんな私を助けてください」と言ったら正直だったと思います。

仲間、家族、隣人って思ってる人にすら、ここまで愛したことないのに、ましてや自分を嫌う人に対してなんて、無理すぎます。もし、彼が「自分には愛がない」って悲しんでいたら、彼はイエス様がくださる救いと義を信じ受けいれることができたと思います。


●適用 あなたも行って同じようにしなさい


このメッセージは、僕らにはできないよね。それでいいんだよね、じゃないですよ。


イエス様は「あなたも行って、同じようにしなさい。」と言いました。


イエス様はあなたができないと知ってます。あなたが弱くて自分中心なのはわかっています。自分の生活が第一、自分の身の安全が第一なのを知っています。危険なところや関心のないところは見て見ないふりをする人だっていうのは分かっています。でも、だから無理だよね、とは言っていなくて、「あなたも行って、同じようにしなさい。」と言いました。


これは圧力じゃなくて、ハラスメントじゃなくてイエス様の働きです。命を捨てて敵を愛してくださるイエス様が共にいるから、イエス様の御霊がそうさせてくれるから、イエス様が生きてるから、だから、「あなたも行って、同じようにしなさい。」です。


イエス様が敵のために十字架で血だらけになって死んで愛してくださったから、そのイエス様が共にいるから、だからやりなさい、です。「あなたががんばれ」ではないです。


イエスキリストを信じた時に、僕らには聖霊によって神の愛が注がれています。

イエス様が罪人のために命を捨てるから、イエス様が敵のために自分を捧げるから、だからあなたも同じようにしなさい、です。

僕らは愛の対象が安全圏内だけ、身内だけ、自分に利益のある人だけかもしれません。

でも、イエス様は全ての人を愛してるから、あなたも行って同じようにしなさい、これが答えです

100万円を捧げることはできないけど、今日のランチ代を使うことができます。僕らの中におられるイエス様がさせてくださいます。


"正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。

ローマ人への手紙 5章7節


僕らは愛する息子なら娘なら命をかけて助けたいと思うかもしれません。でも相手は自分を嫌いな人です。避けている人です。そのような人を命を尽くして愛する愛は私たちには無いです。でもイエス様はそうされました。


しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。"

ローマ人への手紙 5章8節


律法は良いものです。神を愛し人を愛しなさい、は良い教えです。律法は絶対なくならない、一点一画も実現するとイエス様はおっしゃいます。そして、この律法が目指すのはイエスキリストです。


※W.W.J.D.というブレスレットとかネックレスを見かけたことがありますか?

「What Would Jesus Do?」の略で、「もしイエス様だったらどうするだろう?」の意味です。

僕らがするのではなくて、イエス様がしてくださいます。イエス様は僕らの内側に生きておられます。

神様を愛しなさい、隣人を愛しなさい、という律法は、僕らが愛のない罪人であると言うことをはっきりさせてくれます。そして、僕らを無限の愛を与えてくださるイエス様のもとに導いてくれます。


"こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。"

ガラテヤ人への手紙 3章24節


※真人さんの証


昨日のHBIの卒業式、真人さんの証すごくよかったです。自分を捨てて従いたい、でもできない。思いはあってもできない。学院に来てからそんな自分に愕然として、自分あわれんでくださいと祈るようになるまで、自分を助けてくださいって祈れるようになるまですごく時間がかかった、と涙ぐんで証するその話に僕も同じだ、と思いました。彼のうめき、愛したいのに愛せない、だからイエス様、助けてください、憐れんでください、変えてください、って祈りは真実で、神様に喜ばれている嘆きだと思いました。


私の力でなく、愛でもなく。イエス様が注がれる御霊によってさせていただくだけです。

気持ち悪いと言われても、嫌いだと言われても、手を差し伸べるこの姿はイエス様ご自身です。イエス様の愛です。


神と人を本当に愛することを実践できるのは、唯一イエス様だけです。隣人のために命を捨ててすべてを捨てて愛してくださったのはイエス様だけです。文字通り命をつくし、神に捨てられるまでそうして下さったのは、イエス・キリストだけです。イエス様は本当の愛そのものです。イエス様こそ、愛の形、表れです。


この話を聞いて、良いサマリヤ人の話を読んで、ああ、自分は愛せていないな、ここまではできないな、と思う人は健全です。実際には他の人が倒れていても、関わりたくないのが僕らの醜い現実です。心の貧しさを認める人は幸いです。


※御霊によって


イエス様と繋がり、御霊が与えられた時に、この神の愛が心に広がり全力で神と人を愛するようになります。完璧ではないけど、それが自分の向かう方向になります。

他の人を自分を愛するように愛し始めます。完璧ではないけど目指すべき方向です。


イエス様は新しい戒めを与えるとおっしゃいました。それは「私があなた方を愛したように」互いに愛し合いなさい、です。新しい戒めっていうのはイエス様から出る愛です。人間の力ではなくて、イエス様が私の中に住んで、イエスもの御霊が私に注がれてそしてイエスが愛してくださったゆえに、私もイエス様の力によってそうしようと思う新しい心です。


人を愛する能力は、イエス様から与えられます

苦手な人、嫌いな人を許し愛し、その人を愛する力はイエス様から与えられます。


※考えてみましょう。


私たちは好きじゃない人のことを考える必要があります。偏見を持っている人、避けている人について考えてみましょう。


イエス様だけが敵をゆるし、敵のために命を捨ててくださった方からだからです。

神様はその人にどうなさるでしょうか。


イエス様だけにこの愛があります。心を尽くして思いを尽くして神様を愛し、隣人を自分のように愛するのはイエス様の御霊によります。御霊を求めましょう。


※私たちは0%、イエス様が100パーセント

「私たちはできない。でも、イエス様にはできる」


あなたにとって偏見を持っている人、避けている人、関わりたくない人は誰ですか?


「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われます。

やらなくてもいいよ。無理だよとは言ってないです。心を尽くして神様を愛し、隣人を自分のように愛することは正しいことです。それは御霊によって実現します。


僕らでなくイエス様によって、行って同じようにしましょう。

祈りましょう。



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