2025年4月29日火曜日

レビ25.1-24

 レビ25.1-24


生活の中で神様を優先し、隣人を優先すると、「仕事に支障が出る…」とか「思ったのと違う…」という場面があると思います。それでも神様は言われます。



"あなたがたはわたしの掟を行い、わたしの定めを守らなければならない。それを行うなら、その地に安らかに住むことができる。

地は実りをもたらし、あなたがたは満ち足りるまで食べ、安らかにそこに住むことができる。"

レビ記 25章18~19節



イエス様も「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とおっしゃいます。(マタイ6.33)収穫は神様によることを教えるために、神様はイスラエルに7年目には種をまいてはならないし、収穫もしてはならないと言われました。




"「イスラエルの子らに告げよ。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は主の安息を守らなければならない。

六年間はあなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の刈り込みをして収穫をする。

七年目は地の全き休みのための安息、主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の刈り込みをしたりしてはならない。

あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。これは地のための全き休みの年である。"

レビ記 25章2~5節



6年間は畑に種まいてOKだし、ブドウ畑を剪定して実を収穫してもOKです。でも7年目は、畑に種まいちゃダメだし、ブドウ畑の収穫もダメです。自然に生えてきたものも、そのままにしておきます。


一切仕事をしないでどうやって生活するの?と僕らは思います。これは、イスラエルの人たちに本気で神様を信頼するように求める話です。6年の間に十分な収穫を与えてくれて、7年目の休みの間もちゃんと生きていけるようにしてくださる神様を信頼するための教えです。もちろん心配はあります。神様はその心配を代弁してくださいます。



"あなたがたは、『もし私たちが種を蒔かず、また収穫もしないなら、七年目には何を食べればよいのか』と言うであろうが、

わたしは六年目に、あなたがたのためにわたしの祝福を命じ、三年分の収穫を生じさせる。

あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、前の収穫をなお食べている。九年目まで、その収穫があるまで、なお前のものを食べることができる。"

レビ記 25章20~22節



七年目の収穫はあらかじめくださいます。しかも三年分です。次の収穫が与えられるまで足りるから大丈夫です。しかも豊かに与えてくださいます。「地は実りをもたらし、あなたがたは満ち足りるまで食べ、安らかにそこに住むことができる。」(19)これは、土地も収穫も自分たちのものじゃなくて神様のものだ、と証明するための安息年です。


心配しがちな僕らは一度手を置いて神様の恵みを数え、それに浸る期間が必要です。

頑張らなきゃ、と思っている時こそ静まる必要があります。心配で動きたくなる時こそ、立ち返って静かに神様を覚える必要があります。

神様はもっともっと良いものを与えてくださいます。


イスラエルでは50年に一度、土地は最初の所有者に戻りました。土地はいわば“リース”みたいなものです。所有者は神様です。「土地はわたしのものである」と言われます。(23)同じように僕らの体も能力も環境も神様のものです。僕らはそれらを預かっているだけです。



神様のために、自分の仕事を休むことは素晴らしい結果を生むようです。

神の国を一番に求めるなら、生活に必要なものはちゃんと全部与えられます(マタイ6:33)今日も神様を優先しましょう。隣人を愛しましょう、そのために自分のプランが狂っても大丈夫です。もっと素晴らしい祝福が用意されています!


2025年4月28日月曜日

レビ24.1-4

 レビ24.1-4



旧約聖書の時代、「火」は、神様のご臨在や光、そして神様の力の表れでした。神様がモーセに現れた時も、神様は火の中で現れ、(出エジプト3章)イスラエル人たちがエジプトから脱出した時も、いつも神様は火の柱の中で現れてくださいました。(出エジプト13章)聖霊が与えられた時もそれは炎のように見えました。(使徒2章)火は「神様がここにおられる」ことの印です。その神様の光を「絶えず」消すことがないようにと神様は言われます。



"「あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の、質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。

アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝まで主の前に絶えずそのともしびを整えておく。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟である。

彼はきよい燭台の上に、そのともしびを主の前に絶えず整えておく。"

レビ記 24章2~4節



火のついたともしびは「御霊」の表れでもあります。



"御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。"

ヨハネの黙示録 4章5節



この御霊の輝きを消すことがないようにと言われています。

当時、御霊のともしびを整えるのは祭司の仕事でした。「質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。」(2)また聖書は「御霊を消してはなりません。」(1テサロニケ5章19節)と言います。

僕らは神様の輝きを消すこともあるようです。だからこそ、神様の栄光が輝くために、僕らは自分を整える必要があります。


旧約時代の会見の天幕は神様とお会いする場所でした。そして新約聖書は、僕らの体が神様の聖霊の宮であり、教会が神殿だといいます。(1コリント6.19など多数)また、神様のともしびを燃やす燭台は教会だと聖書は言います。(黙示録1.20)だから僕らはこの御霊の火を整え、24時間365日輝かせて消すことがないようにする必要があります。教会も、僕ら個人のクリスチャンもこの世に神様の光を表す存在です。


ともしびが輝くためは「純粋なオリーブ油を持って来なさい」(2)と言われたように、僕らも純粋な心、純粋な体となるために、いつも不純物があることを告白してきよめてもらう必要があります。いつも、毎日です。御霊の輝きのためには、人間側の準備も必要です。


不純な油ではダメです。今日も不純物があることを認めましょう。

自分の力で立派な純粋な人になるのではなくて、イエス様の十字架の血で今日も洗われ、赦され、きよめられます。今日も神様の前に正直になりましょう。「きよいフリ」はやめましょう。

弱い時には「火なんて消えそう……」と言いましょう。

僕らは自分できよくなれません。きよめてくださり、聖霊の輝きを表してくださるのはイエス様です。


クズクズしてても大丈夫です。イエス様は「くすぶる燈心を消すこともない」お方です。(マタイ12:20)僕らの中にある神様の火がどんなに小さくてもイエス様は消すことはありません。

弱さを認め、不純物を認めましょう。今日、もう一度整えてもらいましょう。「彼はきよい燭台の上に、そのともしびを主の前に絶えず整えておく。」(4)イエス様の十字架の血は今日も僕らをきよくしてくださいます。今日も弱さを認めましょう。不純な心を認めましょう。

その時に、僕らの内側におられる御霊の栄光が輝きます。








2025年4月27日日曜日

レビ23.23-44

 レビ23.23-44


頑張っていて、しかも順調だとどうしても神様よりも、自分に頼るようになりがちです。神様がしてくれたことよりも、自分が頑張ったから、あれをしたから、これをしたから、と自分に傾いてしまいます。

実際はうまくいっていることも、持っているお金も、健康も、家族や友達も、家があることも、当たり前ではありません。平和であることも全部が神様からの愛でありプレゼントです。


イスラエル人たち何もなく、ただ搾取される奴隷だったはずなのに、神様が彼らを助け、連れ出し、良い土地を与え、家を町を与えてくださいました。全てが神様からの愛だし祝福だしプレゼントです。

それを忘れないために、神様は一年に1度の仮庵の祭りを定めました。それは何も持っていなかった時のように1週間、仮のテントに泊まるものです。



"あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな仮庵に住まなければならない。

これは、あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」"

レビ記 234243



彼らは毎年一週間、仮のテントで家族で過ごし、今の生活が当たり前ではないことを思い出し確認し、神様のめぐみと愛に感謝します。


僕らも同じように貧しかった経験とか、さまよっていた経験、病気だった頃やいじめられていた頃を思い出し、神様がそこから救出してくださったことを確認するのは大事です。

神様は、そのために何も仕事をしない日(安息日)を設定し、守るようにと教えます。家も財産も永遠じゃないし、神様が与えてくださったものです。自分の稼ぎやがんばりでなく、100%神様の愛と恵みに頼って生きることを確認するためです。動いたり稼いだりしていると、どうしても自分の力で生きているように錯覚してしまいます。



"「イスラエルの子らに告げよ。この第七の月の十五日には、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる。

最初の日には、聖なる会合を開く。あなたがたは、いかなる労働もしてはならない。

七日間、あなたがたは食物のささげ物を主に献げなければならない。八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは食物のささげ物を主に献げる。これはきよめの集会であり、いかなる労働もしてはならない。"

レビ記 233436


まる1日仕事をしない日を作ることも、断食することも、全てを手放して捧げる経験も、すべてが神様から与えられたものであることを体感するための方法です。

僕らも同じく、自分から出たものなど1つもありません。それを確認するために、一度便利なものを手放してみましょう。スマホの電源をオフにしてみたり、断食してみたりするのは、神様だけに頼るために有効な方法です。人に連絡するよりも、食べて元気をつけるよりも神様にだけ頼ること、神様に与えられていることを確認するためです。


便利なものを手放すことで何も持っていなかった頃のこと、不便だった頃のこと、貧しく苦しかった時のことを思い出しましょう。今あるのは全てが主の恵みです。神様に感謝しましょう。平伏して賛美しましょう。「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103.2)



2025年4月24日木曜日

レビ22.1-9

 レビ22.1-9


ぶっちゃけ、元気で幸せでありたいです。そのためにはシンプルに主を愛し重んじることことです。旗を軽んじて踏む人は、単に旗を踏んでいるのではなくて、その国を侮辱しています。

そのように、神様に関わる人やモノへの態度に神様ご自身への態度が出ます。神様のものをずさんに、どうでもいい感じで扱うことは神様を軽んじ、神様を汚すことです。「わたしの聖なる名を汚してはならない。」と主は言われます。(2)「主に対して聖別した聖なるものに、汚れたままで近づくなら、その人はわたしの前から断ち切られる。」(3)とも言われています。例えば、教会で神様にささげられた献金は神様のものです。その取り扱いは慎重に、誠実に、大切に管理されて用いられるべきです。神様のものだからです。神様への態度は神様のものへの態度に出ます。


旧約時代、神様に捧げた収穫物や動物の血を扱う祭司たちはそれらを慎重に扱う必要がありました。それは神様ご自身への態度そのものでした。



"主はモーセにこう告げられた。

「アロンとその子らに告げよ。イスラエルの子らの聖なるものは慎重に扱え。わたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために聖別したものである。わたしは主である。"

レビ記 22章1~2節



祭司も人間なので、体調が悪い日もあるし、神様の前で心も体もきよくない日もあります。でももし、罪があるまま汚れたままで神様の聖なる奉仕をするなら「彼らが聖なるものを冒し、そのために罪責を負って死ぬ」と言われています。(9)だから祭司は特に自分のコンディションに敏感である必要がありました。聖なる神様に、汚れたまま近づくことはできないからです。



"彼らに言え。代々にわたり、あなたがたの子孫のだれかが、イスラエルの子らが主に対して聖別した聖なるものに、汚れたままで近づくなら、その人はわたしの前から断ち切られる。わたしは主である。

アロンの子孫のうち、ツァラアトに冒された者、または漏出のある者はみな、きよくなるまで聖なるものを食べてはならない。また汚れている者、精を漏らす者、

あるいはすべて人を汚す群がるものに触れる者、または、いかなる汚れであれ人を汚れさせる人間に触れる者もそうである。

これに触れた者は夕方まで汚れる。その人は、からだに水を浴びずに聖なるものを食べてはならない。"

レビ記 22章3~6節



今も同じく、神様は聖なる方です。汚れたものを嫌い、交わらないお方です。

イエス様は僕らをきよめ、聖なるものにしてくださいました。どんな悪人であっても悔い改めるなら聖なる人です。

僕らは旧約時代の祭司と同じように聖なる神様と交わっています。そして祭司と同じようにコンディションに気をつける必要があります。毎日生ゴミが出るように、雑草が出てくるように、心の内側から汚れは毎日出ます。どうすればいいのか?聖書は言います。



"だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。"

コリント人への手紙 第一 11章28節



大事なのは自己点検です。汚れた思いがないかチェックする必要があります。

神様への態度は他のクリスチャンに対する態度に出ます。また神様の教会や礼拝への態度に出ます。無関心や軽薄さ、嘲笑的な態度がないかをチェックする必要があります。パンと杯をどうでもいい感じで扱うなら、仲間を笑ったり嫌ったりするならイエス様を軽んじているのと同じです。



"みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。

あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。

しかし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。"

コリント人への手紙 第一 11章29~31節



コリントにある教会は神様を軽んじてイエス様のパンと杯ををどうでもいい感じで扱い、ただの酒宴のようにしてしてしまったようです。「酔っている者もいる」と書いてあります。(1コリント11.21)そのため、多くの人たちが病気になり弱くなり苦しむことになりました。死んだ人もたくさんいたようです。



"みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。

あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。

しかし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。"

コリント人への手紙 第一 11章29~31節



コリント人たちは懲らしめを受けました。愛する子どもとして、弱くされ、貧しくされ、懲らしめられました。僕は正直、元気で幸せでありたいです。そのためにも主を愛し重んじて優先していたいです。神様に関わる人やモノへの態度に神様ご自身への態度が出てしまっています。もう一度自分自身を吟味して、どうでもいい感じになってしまっていることを認めましょう。「私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。」(1コリント11章31節)





2025年4月23日水曜日

レビ21章  レビ記って障がい者差別?離婚者差別?

 レビ21章  レビ記って障がい者差別?離婚者差別?


神様の国に「死」とか「淫らなこと」とか「離婚の悲しみやキズ」とか「体の欠陥」はありません。

そのような聖なる完璧な神の国の「写し」のように、地上での聖なる場所が「会見の天幕」です。天の国が本店なら地上の支店のような場所です。そこで奉仕する祭司たちも、天国には存在しないはずの罪や汚れや死や体の欠点から離れた聖なる人でなければなりませんでした。



"この祭司たちは、天にあるものの写しと影に仕えています。

ヘブル人への手紙 8章5節



祭司はたとえ家族が死んでも死体に触れたり、悲しみのあまり自分の体に傷をつけるような、神様の国にふさわしくない表現は禁止されていました。



"主はモーセに言われた。「アロンの子である祭司たちに言え。彼らに言え。親族のうちの死人によって自分の身を汚してはならない。

ただし近親の者、すなわち、母や父、息子や娘、兄弟の場合は例外である。

また近親の、結婚したことがない処女である姉妹の場合は、彼女によって自分の身を汚してもよい。

一族の中で主人が自分の身を汚し、自分を冒瀆することになってはならない。

頭を剃ってはならない。ひげの両隅を切り落としてもいけない。からだにいかなる傷もつけてはならない。

彼らは自分の神に対して聖でなければならない。また自分の神の名を汚してはならない。彼らは、主への食物のささげ物、すなわち彼らの神のパンを献げるからである。彼らは聖でなければならない。"

レビ記 21章1~6節



"いかなる死人のところにも入って行ってはならない。自分の父のためにも母のためにも自分の身を汚してはならない。

聖所から出て行って神の聖所を冒してはならない。神の注ぎの油による記章を身に着けているからである。わたしは主である。"

レビ記 21章11~12節



神の国は死も、淫らなことも、離婚の悲しみもない世界です。だからそこで奉仕する祭司も淫らな人や離婚経験者と結婚してはならないルールがあります。天の国のような場所で奉仕しているからです。



"彼らは淫行で汚れている女を妻としてはならない。また夫から離縁された女を妻としてはならない。祭司は神に対して聖だからである。

あなたは彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンを献げるからである。彼はあなたにとって聖でなければならない。あなたがたを聖別する主であるわたしが聖だからである。

祭司の娘が淫行で身を汚すなら、その父を汚すことになる。その女は火で焼かれなければならない。"

レビ記 21章7~9節



"彼は処女である女を妻としなければならない。

やもめ、離縁された女、あるいは淫行で汚れている女、これらを妻としてはならない。彼はただ、自分の民の中から処女を妻としなければならない。

一族のうちで子孫を汚すことのないようにするためである。わたしは彼を聖別する主だからである。」"

レビ記 21章13~15節



さらに、神の国には体の欠陥や障害はありません。すべての人が完璧な体が与えられています。なので、障がいのある人は祭司になれません。僕らはこれを読んで、ん?差別的?と思います。ところが欠点と汚れがある人にとってはむしろ朗報、喜びです。神様の国では僕らも完璧な身体、罪のない体、淫らな心のない美しい人に変えられるからです。



"だれでも、身に欠陥のある者は近づいてはならない。目の見えない者、足の萎えた者、あるいは手足が短すぎたり長すぎたりしている者、

足や手の折れた者、

背の曲がった者、背のきわめて低い者、目に濁りのある者、湿疹のある者、かさぶたのある者、睾丸のつぶれた者などである。

祭司アロンの子孫のうち、身に欠陥のある者はだれも、主への食物のささげ物を献げようと近寄ってはならない。彼の身には欠陥があるから、神のパンを献げるために近寄ってはならない。

しかし神のパンは、最も聖なるものであっても、聖なるものであっても食べることが許される。

ただし、垂れ幕のところに行ってはならない。祭壇に近寄ってはならない。身に欠陥があるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしがそれらを聖別する主だからである。」

モーセはこのことを、アロンとその子らとすべてのイスラエルの子らに告げた。"

レビ記 21章18~24節



神の国ではあらゆる悲しみ、死、淫らなこと、離婚の傷、障がい、全てが過去のものとなり、きよめられ、全く新しくされて神様の国に迎え入れられます。



"キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。"

ピリピ人への手紙 3章21節



神の国ではすべての傷や欠点や汚れがなくなります。

イエス様はこの神の国を表すために、病を癒し、悪霊を追い出し、死人を甦らせ、罪人を赦してくださいました。そして、特に病気の人、欠陥のある人、淫らな売春婦をご自分の近くに招いてくださいます。これは神様の国の回復することを表すためです。「神の国ではこういうことが当たり前になります」という、未来の完全な国の先取りです。

どんな人でもあの十字架の血によって完全な人、聖なる人に変えられます。

それでイエス様は障がい者を差別するどころか、むしろ積極的に招いています。



"すると大勢の群衆が、足の不自由な人たち、目の見えない人たち、手足の曲がった人たち、口のきけない人たち、そのほか多くの人をみもとに連れて来て、イエスの足もとに置いたので、イエスは彼らを癒やされた。

群衆は、口のきけない人たちがものを言い、手足の曲がった人たちが治り、足の不自由な人たちが歩き、目の見えない人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そしてイスラエルの神をあがめた。"

マタイの福音書 15章30~31節



また、イエス様は淫らな女を積極的に招いておられます。あるサマリアの女は夫が5人もいて、今一緒に住んでる人も夫じゃありませんでした。(ヨハネの福音書 4章)離婚や不道徳な関係を何度も経験してる女性をイエス様は招いておられます。泣いてイエスの足を洗った女も「罪深い女」と紹介されていて、おそらく売春婦でした。(ルカの福音書 7:36–50)

イエス様は欠点や汚れを避けるのではなくて、むしろ汚れた人を招き、きよめ、完璧に作り替えてくださる方です。神様の国に「死」とか「淫らなこと」とか「離婚の悲しみやキズ」とか「体の欠陥」はありません。


僕らは変えられます。もう変えられ途中です。感謝しましょう。ハレルヤ!