レビ22.1-9
ぶっちゃけ、元気で幸せでありたいです。そのためにはシンプルに主を愛し重んじることことです。旗を軽んじて踏む人は、単に旗を踏んでいるのではなくて、その国を侮辱しています。
そのように、神様に関わる人やモノへの態度に神様ご自身への態度が出ます。神様のものをずさんに、どうでもいい感じで扱うことは神様を軽んじ、神様を汚すことです。「わたしの聖なる名を汚してはならない。」と主は言われます。(2)「主に対して聖別した聖なるものに、汚れたままで近づくなら、その人はわたしの前から断ち切られる。」(3)とも言われています。例えば、教会で神様にささげられた献金は神様のものです。その取り扱いは慎重に、誠実に、大切に管理されて用いられるべきです。神様のものだからです。神様への態度は神様のものへの態度に出ます。
旧約時代、神様に捧げた収穫物や動物の血を扱う祭司たちはそれらを慎重に扱う必要がありました。それは神様ご自身への態度そのものでした。
"主はモーセにこう告げられた。
「アロンとその子らに告げよ。イスラエルの子らの聖なるものは慎重に扱え。わたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために聖別したものである。わたしは主である。"
レビ記 22章1~2節
祭司も人間なので、体調が悪い日もあるし、神様の前で心も体もきよくない日もあります。でももし、罪があるまま汚れたままで神様の聖なる奉仕をするなら「彼らが聖なるものを冒し、そのために罪責を負って死ぬ」と言われています。(9)だから祭司は特に自分のコンディションに敏感である必要がありました。聖なる神様に、汚れたまま近づくことはできないからです。
"彼らに言え。代々にわたり、あなたがたの子孫のだれかが、イスラエルの子らが主に対して聖別した聖なるものに、汚れたままで近づくなら、その人はわたしの前から断ち切られる。わたしは主である。
アロンの子孫のうち、ツァラアトに冒された者、または漏出のある者はみな、きよくなるまで聖なるものを食べてはならない。また汚れている者、精を漏らす者、
あるいはすべて人を汚す群がるものに触れる者、または、いかなる汚れであれ人を汚れさせる人間に触れる者もそうである。
これに触れた者は夕方まで汚れる。その人は、からだに水を浴びずに聖なるものを食べてはならない。"
レビ記 22章3~6節
今も同じく、神様は聖なる方です。汚れたものを嫌い、交わらないお方です。
イエス様は僕らをきよめ、聖なるものにしてくださいました。どんな悪人であっても悔い改めるなら聖なる人です。
僕らは旧約時代の祭司と同じように聖なる神様と交わっています。そして祭司と同じようにコンディションに気をつける必要があります。毎日生ゴミが出るように、雑草が出てくるように、心の内側から汚れは毎日出ます。どうすればいいのか?聖書は言います。
"だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。"
コリント人への手紙 第一 11章28節
大事なのは自己点検です。汚れた思いがないかチェックする必要があります。
神様への態度は他のクリスチャンに対する態度に出ます。また神様の教会や礼拝への態度に出ます。無関心や軽薄さ、嘲笑的な態度がないかをチェックする必要があります。パンと杯をどうでもいい感じで扱うなら、仲間を笑ったり嫌ったりするならイエス様を軽んじているのと同じです。
"みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。
あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。
しかし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。"
コリント人への手紙 第一 11章29~31節
コリントにある教会は神様を軽んじてイエス様のパンと杯ををどうでもいい感じで扱い、ただの酒宴のようにしてしてしまったようです。「酔っている者もいる」と書いてあります。(1コリント11.21)そのため、多くの人たちが病気になり弱くなり苦しむことになりました。死んだ人もたくさんいたようです。
"みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。
あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。
しかし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。"
コリント人への手紙 第一 11章29~31節
コリント人たちは懲らしめを受けました。愛する子どもとして、弱くされ、貧しくされ、懲らしめられました。僕は正直、元気で幸せでありたいです。そのためにも主を愛し重んじて優先していたいです。神様に関わる人やモノへの態度に神様ご自身への態度が出てしまっています。もう一度自分自身を吟味して、どうでもいい感じになってしまっていることを認めましょう。「私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。」(1コリント11章31節)
0 件のコメント:
コメントを投稿