2025年4月28日月曜日

レビ24.1-4

 レビ24.1-4



旧約聖書の時代、「火」は、神様のご臨在や光、そして神様の力の表れでした。神様がモーセに現れた時も、神様は火の中で現れ、(出エジプト3章)イスラエル人たちがエジプトから脱出した時も、いつも神様は火の柱の中で現れてくださいました。(出エジプト13章)聖霊が与えられた時もそれは炎のように見えました。(使徒2章)火は「神様がここにおられる」ことの印です。その神様の光を「絶えず」消すことがないようにと神様は言われます。



"「あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の、質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。

アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝まで主の前に絶えずそのともしびを整えておく。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟である。

彼はきよい燭台の上に、そのともしびを主の前に絶えず整えておく。"

レビ記 24章2~4節



火のついたともしびは「御霊」の表れでもあります。



"御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。"

ヨハネの黙示録 4章5節



この御霊の輝きを消すことがないようにと言われています。

当時、御霊のともしびを整えるのは祭司の仕事でした。「質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。」(2)また聖書は「御霊を消してはなりません。」(1テサロニケ5章19節)と言います。

僕らは神様の輝きを消すこともあるようです。だからこそ、神様の栄光が輝くために、僕らは自分を整える必要があります。


旧約時代の会見の天幕は神様とお会いする場所でした。そして新約聖書は、僕らの体が神様の聖霊の宮であり、教会が神殿だといいます。(1コリント6.19など多数)また、神様のともしびを燃やす燭台は教会だと聖書は言います。(黙示録1.20)だから僕らはこの御霊の火を整え、24時間365日輝かせて消すことがないようにする必要があります。教会も、僕ら個人のクリスチャンもこの世に神様の光を表す存在です。


ともしびが輝くためは「純粋なオリーブ油を持って来なさい」(2)と言われたように、僕らも純粋な心、純粋な体となるために、いつも不純物があることを告白してきよめてもらう必要があります。いつも、毎日です。御霊の輝きのためには、人間側の準備も必要です。


不純な油ではダメです。今日も不純物があることを認めましょう。

自分の力で立派な純粋な人になるのではなくて、イエス様の十字架の血で今日も洗われ、赦され、きよめられます。今日も神様の前に正直になりましょう。「きよいフリ」はやめましょう。

弱い時には「火なんて消えそう……」と言いましょう。

僕らは自分できよくなれません。きよめてくださり、聖霊の輝きを表してくださるのはイエス様です。


クズクズしてても大丈夫です。イエス様は「くすぶる燈心を消すこともない」お方です。(マタイ12:20)僕らの中にある神様の火がどんなに小さくてもイエス様は消すことはありません。

弱さを認め、不純物を認めましょう。今日、もう一度整えてもらいましょう。「彼はきよい燭台の上に、そのともしびを主の前に絶えず整えておく。」(4)イエス様の十字架の血は今日も僕らをきよくしてくださいます。今日も弱さを認めましょう。不純な心を認めましょう。

その時に、僕らの内側におられる御霊の栄光が輝きます。








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