ヘブル13:7-18 この世にはない福音に立つ祝福
最近、次世代の牧会チームについてどうしよう、と教会で考えている最中です。そんな私たちに与えられている箇所です。牧会とは何か、指導者とは何か、僕ら教会が大事にすることは何か、あらためて主が教えてくださっています。
●倣うべき指導者の二つの面
1 神様の言葉を語ること
2 神様の言葉に従うこと
神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。
ヘブル人への手紙 13章7節
まず二つのことが書かれています。「神のことばをあなたがたに話した指導者」を覚えることと、「生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。」です。
僕らは牧師が神様の言葉を足したり引いたりしないでそのまま語るように、祈る必要があります。
聖書のみ言葉は知識とかお勉強ではないです。イエス様のことばは命のパンです。人は神様の言葉によって生きると神様がおっしゃいます。みことばは僕らの命です。永遠の命と祝福をもたらすものです。そして、指導者がその語った通りの生き方ができるように祈る必要があります。後で、この手紙を書いた著者も「私たちのために祈ってください」とお願いしています。
私たちのために祈ってください。私たちは正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動したいと思っているからです。
18節
正しく行動したいとは思ってます。クリスチャンならみんなそう思っています。でも、できてないことも認めます。だから「私のためにも祈ってください」と聖書は言います。
僕らもいいましょう。正しく行動したいと思ってます。でも弱いものです。祈ってください。助けてください、と祈りましょう。特に牧師や指導的な立場の人のために祈りましょう。
そのような教会になれるように祈りましょう。今学んでいる3人の神学生たちが将来の指導者として、神様の言葉を語る人になるように、口だけでなく、それを実行する人になるように。祈りましょう。求めましょう。
「祈ってください」と検索すると新約聖書だけでも11カ所です。祈りなさい、とか、祈りましょう。とか入れると、50カ所以上あります。預言者たちでさえ、祈ってください、と懇願し、聖霊に満たされている使徒パウロでさえ10回も祈ってください、とお願いしています。これが神様の願いです。
特に指導者が心地の良いことをいうのでなく、聖書のみ言葉を語るように。
僕らが好きなタイプの先生を求めるのでなく、神様の言葉をそのまま語り、それを実行することを求めるように。僕らは神様の言葉よりも、好きな、心地いい話が好きだからです。ますますそんな時代になると聖書は警告しています。パウロは若い牧師テモテにアドバイスしています。
"みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。"
テモテへの手紙 第二 4章2~4節
神様の言葉に権威があります。イエス様の言葉に力があり命があります。ですが、牧師の言葉や意見がどんなに賢く魅力的でも、それが人から出たものなら人生を変えたり、生かしたり、祝福する霊的な力がありません。神様のみことばだけが人を生かします。主の言葉はいのちのパンです。
教会で靴下の色こうしなさいとか、服はこうしなさいとか、聖書にない事を言うのではありません。これが僕らが求めるべき、祈るべき、従うべき指導者です。
教会を成長させ、生かし、守り、祝福の御国まで導いてくれるのは牧師ではなく「みことば」です。あの先生がこう言った、あっちのセミナーではこうだった、が中心ではなくて、聖書のみことばに聞き、養われて成長することが中心です。
聖書の言葉は、日本が不況になっても、もしも戦争になって侵略されたとしても変わることがありません。この世界を超えたいのちのことばです。この世のことばはどんなに魅力ある教えでも、草や花のように消えていくといいます。突然全てが失われる日が来ます。それでもなくならないのは神様の言葉だけです。
"天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。"
マタイの福音書 24章35節
何が起こっても、世界が終わっても、死んでも終わらないことばです。永遠に僕らを守りいのちと祝福を与える言葉です。それが神様の言葉です。だからこそ福音良い知らせです。
草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。
イザヤ書 40章8節
・みことばに従うことの大切さ
お手本はイエス様です。後でイエス様のお手本が出てきます。
神様のことばを聞くだけでなく従うことは、キリストと一緒に辱めを受けたり、苦しみを受けることでもあります。7節にある、僕らが見倣うべき指導者の生き方とは、その前後の文脈からキリストに従い、苦しみがあっても希望を持って忍耐している指導者に倣いなさい、と言っていることがわかります。
神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。"
ヘブル人への手紙 13章7節
人の下に立ってくださったイエス様です。弟子たちの足を洗い、しもべとして仕えた上で弟子たちに裏切られ、捨てられる側になってくださったイエス様です。それがイエス様の模範です。そして、それに倣いなさい、と聖書は言います。またそれに倣っている指導者を覚えなさい、と言っています。
イエス様と一緒に自分を下にし、人に仕え、愛し、自分を失う側になることです。指導者だけでなく、僕ら全員に言われています。少し前の11章は偉大なお手本のリストです。
沢山の模範的な信仰の指導者が出てきます。
その中の一人、モーセも僕らが見倣うべき指導者です。エジプトで全ての富と権力を持つ王さまの子どもとして育ちました。モーセも地上の全ての富と権力得られる立場だったと思います。でも聖書は言います。
はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。
ヘブル人への手紙 11章25~26節
この世界でうまくいくことや評価され褒められることよりも、力を持つことよりも神様に賞賛されることを選ぶ生き方です。この世で目の欲、肉の欲、暮らしむきが満足されることを選ぶのではなくて、神の国で喜ばれることを選ぶことです。それが信仰から生まれた先輩たちの生き方、そしてイエス様の生き方です。
最大のお手本はイエス様です。福音に生きるということは、キリストと一緒に全てを捨て、命を捨て、苦しみも受け、その後にとんでもなく大きな賞賛と栄光を受けることでもあります。
●イエス様の愛のお手本の確認
聖書はここでもう一度イエスキリストの恵みと愛の生き方をもう一度確認しています。
それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
ヘブル人への手紙 13章12~13節
宿営の外とは、汚れた人が追い出されるところ、汚物が捨てられるところです。誰も行きたくない汚いところ、追い出されたところです。
例えばささげられた肉は幕屋や神殿の祭壇で焼くんだけど、内臓とか汚物とかそういうものを捨てる場所です。宿営の外とは、ゴミ捨て場だし、死体を埋める場所です。そのような汚れた場所です。捨てられた場所です。その宿営の外でイエス様は捨てられ苦しまれ十字架で殺されました。そして、聖書は「ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」と言います。私たちもイエス様と一緒に辱められよう、それに連帯しよう、と言っています。
宿営の外は見放された人たちの場所です。
例えば、ツアラアトとか『汚れてる人たち』は居住区に住んではいけません。ツアラアトは体が半ば腐っていく病気です。感染する病気なので、宿営の外に出されます。もし当時、エルサレムの町のまわりにある暗い谷のどこかを歩いてたとしたら、遠くの方から、「汚れてる。汚れてる。汚れてる!」っていう叫び声が聞こえてきたと思います。人に聞こえるように叫ばなければならない、とレビ記13章に書かれた律法です。宿営の外を歩いていたら、体の肉が崩れた人が汚れている、って叫びながら歩いている、そういう場所です。怖いと思います。イエス様が捨てられたのは、イエス様が見捨てられ、殺されたのはそういう場所です。汚れた場所。捨てられた場所に行ってくださったのは、イエス様です。これが変わらない福音であり恵みであり、愛です。
クリスチャンになっても突然、罪が自分を襲ってくることがあるかもしれません。クリスチャンになる前からの悪いクセがムクムクと出てきて、誘惑に勝てなくて、「もう、神の前に顔向けできない……」って思ってしまうこともあると思います。祈ろうとして膝をついても祈れないような気がしてくる。
まさに、もう教会には行けない、教会からはじかれた汚れた自分だ、と思うかもしれません。
「教会のみんなは幸せだ。でも、自分は悲しみに沈んでる。自分なんて神の子って呼ばれる資格なんてないよ。神様、罪を犯しました。ひどい行いをして、あなたに背いたんです……」。
信仰はなくなってしまって、罪の意識ばかりが心にのしかかって、もう神様からも教会から完全に外に追い出されてしまったって気持ちになるかもしれません。みなさん、そういう経験があると思います。
聖書を開いても、どこを読んでもただ責められているように見えて、何の慰めも得られなかった経験はないでしょうか。クリスチャンなら誰でも一度はこんなふうに感じるときがあったのではと思います。
教会から追い出され、もう戻れないと思い、汚いくて暗い場所に追い出されたとき、そこに誰かがいます。その人を見たら、イエス様でした。イエス様もまた宿営の外に追い出され、罪人とされ、呪われ、殺されていました。
今日のメッセージが教会から離れてる人に届きますように。自分は教会には戻れない、入れないと感じる人に届きますように。イエス様ご自身も外に閉め出され「さげすまれて、人々からのけ者にされた」って書かれています。(イザヤ書53:3)「イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」とあります。(12)
もしかして聖餐式のとき、自分を吟味して、と言われたら、ふさわしくないままでパンと杯を取るなら、主に対して罪を犯すと言われたら、私は無理、と思う人がいると思います。まるで神様から「あなたはふさわしくない」と言ってるように感じる人。みなさんはどうでしょう。
もし、あなたが、自分は汚れていて、ひどい罪を犯して、キリストの体と血にあずかるのはふさわしくない、って思うなら、あなたは一番ふさわしい人です。
なせなら、イエス様が刺され、血を流したあの体の場所は、宿営の外の、一番汚い、罪深い人が殺される場所、捨てられる場所です。だから聖餐式のテーブルって、あの呪われて汚れた、一番最低の場所に来てくださったイエス様を思い出すためのテーブルです。十字架は、「宿営の外」です。
これがイエスキリストの生き方、イエス様の愛、赦し、憐れみの方法です。
そしてこれは僕らのお手本です。13節よく読むと「ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こう」とあります。
イエス様だけが苦しむのでなく、私たちもそのイエス様の辱めを背負って、一緒に悪く言われ、一緒に傷つけられたりもするけど、イエス様がそうやって見捨てられた人たちを愛してくださったように、僕らも一緒にそうしようと言うことです。
"私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。"
ヘブル人への手紙 13章14節
私たちはこの世の繁栄でなく、消えていく成功や富でなく、それらを全部捨てて犠牲となって愛してくださったイエス様に倣います。あの、全てを捨ててくださった愛によって、その恵みによって心を強くするんです。この犠牲の愛が僕らを励まし、どん底から救い、強くしてくださいます。ああしなさい、こうしなさい、という律法とかルールではありません。
様々な異なった教えによって迷わされてはいけません。食物の規定によらず、恵みによって心を強くするのは良いことです。
(9節)
・イエス様と一緒に死んでいくその先にあるもの
イエス様が忍耐して全てを捨てて命を捨ててへりくだり、最低の立場にまでなっても忍耐し愛し抜いてくださったのは、この忍耐や犠牲の先に、自分を捨てて殺されていく先に復活と栄光と喜びがあることを知っていたからです。
"信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。"
ヘブル人への手紙 12章2節
僕らもまたイエス様と一緒に栄光を受けることは聖書が何度も言っていることです。
いつも祝祷でエペソ1章にある祈りを祈ってます。
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、(…中略…)知ることができますように。
(エペソ1.18-19)
また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
(1ペテロ 1:4)
こんな素晴らしいものがあるのに、どうしてこの世のつまらないガラクタにしがみつくの?という話です。イエス様はその先にある喜びと報いを見ながら忍耐されました。
※師匠である阿部先生に言われたことが忘れられません。「遠藤さん、牧師として批判されたり悪く言われたら、良い牧師してますよ。牧師が悪く言われるのはいいです。イエス様そうだったからね。遠藤さん、イエス様に従うんでしょ」
今日、13節を読んで改めてそう思いました。イエス様と一緒に辱められましょう。イエス様と一緒に悪く言われましょう。イエス様と一緒に下に行くんです。尊敬されて褒められる人生じゃなくて、イエス様とともに人の罪を忍耐し、祈り、とりなしていく、そのような指導者に僕もなりたいです。ちやほやされてこの世で認められるのはやっぱり違うと思います。
"私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。"
ヘブル人への手紙 13章14節
この世界では負けに見えるだけど、本当に勝利するのはキリストと一緒に忍耐して祈る人です。
だから、悲しいこと苦しいことはあるけど喜びなさい、と言います。
"むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。
もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。"
ペテロの手紙 第一 4章13~14節
イエス様が忍耐された理由はその先に報いがあったからです。だから悪く言われても喜びなさいっていいます。それが13節-14節です。
"ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。"
ヘブル人への手紙 13章13~14節
●一緒に苦しみ、悲しみ、とりなす役目
イエス様は十字架の上で「父よ彼らをお赦しください」と祈ってくださいました。
今も、大祭司として、天で罪を犯す僕らのために祈り続けてくださっています。「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7.25)
まさに、イエス様が僕らの魂のために見張りをし、そして、祈り続けてくださる方です。
そして、僕らも同じように、兄弟姉妹の魂の状態を見て、一緒に悲しんだり喜んだりして、祈る役目が与えられています。
(17節)
あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。
指導者は、イエス様と一緒に彼らを許してください、彼らを守ってくださいって魂の見張りをして祈ります。いつも神様に報告し、連絡し、相談し、求めます。ホウレンソウです。愛する神様の子どもたちがまたフラフラして罪に負けています。神様ごめんなさいって一緒に祈ります。謝ります。これが大祭司イエス様の祈りです。
自分が偉い人で、あの人はダメな人、ではないです。
イエス様はまるで罪人の代表のように神に呪われ、苦しめられ、殺される役目をしながら祈ってくださいました。これがお手本です。
本当の牧会者はイエス様です。そして、地上の牧師や牧会チームはイエス様のもとで一緒に働き、用いられる牧会者です。英語ではアンダーシェパード、というそうです。大牧師であるイエス様の下で働く牧会者という意味でのアンダーシェパードです。
これは、牧師だけでなく、みんなイエス様のもとで他の人を愛するアンダーシェパードです。みんな仲間がいます。職場の同僚がいます。家族が友達がいます。お客さんがいます。祈るべき、とりなすべき相手はいます。赦しを伝え、福音を伝え、祈り、とりなす相手がみんないます。そして、自分も祈られる必要がある罪人だし、相手も欠点だらけです。自分が偉い人であの人はだめな人ではありません。
フラフラしている人を見たり聞いたりしたら、自分の罪として一緒に謝り、祈る役目が与えられています。
みんな上から目線が好きなんです。でもイエス様は違います。
罪人と一緒に辱めを受け、苦しみ、悲しみ、父よ彼らお赦しください、彼らは何をしているかわからないのです、と祈ってくださるのが大祭司イエス様です。罪がないのに、汚れたものと呼ばれ、だめなやつと言われ、こっち側に来てくださったのがイエス様です。
これが大祭司イエス様に倣うクリスチャンの生き方です。クリスチャンになったらほっとするとか喜びがあるもちろんです。でもキリストと共に苦しみ、仲間のために一緒に苦しみも通過するのも大事なことです。
もし皆さんがクリスチャンとして苦しみを今受けているなら、辱めを受けてるなら、どうしてこんな被害に合わなきゃなんないんだろう、どうしてこんな目に会わなきゃなんないんだよ、と思っているなら、それは今キリストとつながって、キリストに倣う訓練を受けているからです。
安全なところから出ないでいられるのは赤ちゃんだけです。赤ちゃんは守られます。最初はそれで大丈夫。安心してください。でも、だんだん、イエス様と一緒に忍耐し、イエス様のために苦しむ面もあります。それは単なる我慢でないです。その先には本当の喜びと祝福が見えています。
●祈ってもらう必要
クリスチャンならみんなイエス様にならいたい、とは思っています。でも、できてないことも認めます。だから祈ってください、と私のためにも祈ってください、と聖書が言っています。
祈ってもらわないと、一人ではできないです。
祈られる必要があります。祈ってもらわないと、世の教えに流され、うまくいくこと、この世で繁栄すること、肉欲、お金、権力、怠け、高ぶりに流されていくからです。
"私たちのために祈ってください。私たちは正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動したいと思っているからです。
ヘブル人への手紙 13章18節
正しく行動したいと思ってます。でもできないんです。聖霊の助けがなければ、生きて働いておられる神様の言葉がなければ。祈りがなければ、できないのです。
僕らは神様よりお金を求めお金に流されます。だから聖書は言います。
金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。(5節)
みなさんの判断基準はなんでしょう。この世の会社なら確実にお金が判断の基準になってると思います。だから祈ってもらう必要があります。神様の国はお金を愛する世界ではないからです。
僕らは結婚を大事にするよりも、お手軽に性欲を満たし、満足しようとする誘惑にあっています。だから聖書は言います。
結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者をさばかれるからです。(4節)
だから祈ってもらう必要があります。みなさんはどうでしょう。ますます結婚の意味がなくなっていく時代です。そしてクリスチャンも結婚を軽んじていく誘惑にさらされています。ネットはエロい広告ばかりです。僕らは祈ってもらう必要があります。
僕らはすぐ高ぶり、自分の快適さだけを求め、弱い人を無視しがちです。愛がなく、人をさばき分裂分派を作りたがります。だから聖書はいいます。
(1-3節)
1,兄弟愛をいつも持っていなさい。
2,旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。
3,牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。
だから祈ってもらう必要があります。
神様の言葉によって生きることは、この世の生き方、この世の快適さや権力や楽しみとは違います。
祈り、祈ってもらわないと無理です。
僕らはこの世界で生きているけど、この世のものではありません。
イエス様はその先の祝福と喜びを見て、自分を捨てて愛し抜いてくださいました。
同じように、僕らもその生き方に倣うものです。イエス様は「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」とおっしゃいます。(ルカ14:27)
今日、もう一度献身しましょう。全てを手放しましょう。
イエス様と一緒に死にましょう。その先に回復があり、喜びがあり、祝福があります。イエス様が最悪な宿営の外に来てくださいました。だから僕らも大丈夫です。ハレルヤ!
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