民数記11章
"すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。"
マタイの福音書 11章28節
イエス様は目に見えません。…ですが、「キリストのからだ」は見えます。それは教会です。苦しみは自分だけのものではなく、からだ全体で共有するものです。
"一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。"
コリント人への手紙 第一 12章26~27節
"一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。"
伝道者の書 4章12節
モーセは孤独でした。人々は繰り返し神様に反抗し、モーセにわめき続けます。モーセはたった1人の指導者として苦しみ、祈りました。
"さて、民は主に対して、繰り返し激しく不平を言った。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。
すると民はモーセに向かってわめき叫んだ。それで、モーセが主に祈ると、その火は消えた。"
民数記 11章1~2節
神様の怒りと裁きの火が降った後も、人々は懲りることなく文句を言い、欲望にかられ、わめき続けます。モーセはその重さに圧倒されて嘆きます。
"彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。
エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。
だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」"
民数記 11章4~6節
モーセはあまりの重大さに圧倒され、苦しすぎて、「私を殺して下さい」と神様に祈るほどでした。
"それで、モーセは主に言った。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのですか。なぜ、私はあなたのご好意を受けられないのですか。なぜ、この民全体の重荷を私に負わされるのですか。…
どこから私は肉を得て、この民全体に与えられるでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『肉を与えて食べさせてくれ』と言うのです。
私一人で、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。
私をこのように扱われるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を悲惨な目にあわせないでください。」"
民数記 11章13~15節
神様は最初から重荷をモーセだけが背負うようにはしていませんでした。神様が一緒に背負ってくださいます。そしてそれは、指導者70人を集めることに現れます。神様の願いは1人で苦しむことではなく、仲間と一緒に重荷を背負うことでした。「人がひとりでいるのは良くない」と神様はおっしゃいます。(創世記2章18節)
"主はモーセに言われた。「イスラエルの長老たちのうちから、民の長老で、あなたが民のつかさと認める者七十人をわたしのために集めよ。そして、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。
わたしは降りて行って、そこであなたと語り、あなたの上にある霊から一部を取って彼らの上に置く。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたがたった一人で負うことはなくなる。"
民数記 11章16~17節
今も昔も同じです。神様の願いは人がひとりで苦しむことではありません。
仲間と一緒に重荷を負い、分け合うように、とおっしゃいます。。
イエス様が重荷を負ってくださることは、キリストのからだである教会の仲間と一緒に重荷を分け合うことです。
"互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。"
ガラテヤ人への手紙 6章2節
小さいことも大きすぎることも、分け合いましょう。助けを求めましょう。人はひとりで生きているのではなく「神様と一緒」です。それは教会の仲間と互いに重荷を負い合うことです。遠慮せずに助けを求めましょう。二人でも三人でもイエス様の名前のもとに集まるところに、イエス様がおられます。ハレルヤ!
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