民数記9.15-23「神様の導きとは?」 礼拝メッセージ
今週は愛する方々が3人も続けて召されて、ほんとに悲しく寂しい日を過ごしています。
それでも神様は僕らに希望を与えてくださっています。死んで終わりでなくて神様の御もとに召されたからです。
天国に行くとか、神様のもとに行くって言いますが、何を根拠にそういうのでしょうか。その光景を誰も見てはいません。証拠もないのに信じることができるでしょうか。みなさん、どう思いますか?
たまに聞きます。「神様見えたらいいのに。神様見えないからわかんない。」確かに、私たち神様は見えません。それでも確かにわたしたちを導いてくださっていることがわかります。
わかる理由はたくさんありますが、その一つだけを今日はあげたいと思います。
イエス様を信じた人に与えられる神様の霊、御霊と言いますが、その御霊にによってわかる、と聖書は言います。御霊が与えられた人は心の目が見えるようになります。
いつも東栄教会の祝福の祈りで祈っています。
(エペソ1章17-18節)
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、…知ることができますように。
見えなくても匂いや音はわかるのと同じように。見えなくても温度はわかるように、見えないのに、神様の霊、御霊が与えられて心の目が見えるようになって、僕らは神様を確信するし体験もします。
神様の聖書の言葉は本当だ、とわかります。しかも、神様に従おうとする力も与えてくれます。
神様に召された人は、死後に栄光の体に変えられる、と聖書は言います。今の人生の地上でのの苦しみは、やがて与えられる栄光に比べたらとるに足りない、と聖書は言います。それを確信させてくれるのが御霊です。
寂しいですが、希望を持って励まし会いましょう。今日のお昼はどなたでも一緒にランチを囲んで、神様が杉本さんを通して与えてくださった愛とめぐみの数々を分かち合いたいと思います。どうぞどなたでもご参加ください。
今日のメッセージのポイントは2つです。
1 見える導きとは? 雲の柱、火の柱 契約の箱とは?
2 今の時代の神様の導きとは?
今日読んだ旧約聖書の時代は、紀元前1500年くらいに書かれたものです。その時には神様がここにいらっしゃる、ということがはっきりと見えるしるしがありました。
この時代、イスラエルの200万人くらいの人々がエジプトで奴隷でした。神様はそこから脱出させてくださり、神様が与えてくださる素晴らしい場所に連れて行ってくださいます。その途中の話です。
その道は、何もない荒野です。この時代はGPSもナビもGoogle マップもない時代です。
でも神様ご自身がナビでした。確かにはっきりと導いてくださった、というのが、今日の箇所です。
"幕屋が設営された日、雲が、あかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって朝まで火のようであった。
いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。"
民数記 9章15~16節
CGにするとこんなイメージです。
昼は誰にでもわかる雲の大きな柱、夜はめちゃくちゃ大きな炎の柱です
ちなみに札幌市の人口は196万人です。この時、イスラエルの人々は200万人以上と言われています。だいたい同じか、それ以上の人が何もない荒野に部族ごとに宿営するんですね。そのど真ん中に雲の柱が見える。夜は火の柱が見えると言うことです。
ここは東区のハズレですが、かすかに札幌の真ん中あたりのJRタワーは見えます。一応。
でも当時神様が与えてくださった雲の柱、火の柱は比べ物になりません。空高く、誰の目から見えるように、「あそこに神様がいらっしゃる」とわかるように、雲の柱が、そして夜は炎の柱が立ってました。そして、それが移動する時には大群衆が一緒に移動しました。
"いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。
いつでも雲が天幕から上るときには、その後でイスラエルの子らは旅立った。また、雲がとどまるその場所で、イスラエルの子らは宿営した。"
民数記 9章16~17節
夜中にちょっと目が覚めて、眠れなくてちょっと外の新鮮な空気吸おうとしたら、会見の天幕の上に、炎の柱がブワっと空に燃え続けています。それを見て、神様は今日も真ん中にいてくださるっていうのがわかりました。雲の柱・火の柱とは、神様が生きて働いておられて、そこにいてくださることのしるしです。今みたいに「神様信じるのはちょっと難しいです」という悩みはありません。見えたからです。しかもその雲の柱火の柱は動きます。そして全員がそれについて行きます。荒野の大移動です。
"主の命によりイスラエルの子らは旅立ち、主の命により宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営した。
雲が長い間、幕屋の上にとどまるときには、イスラエルの子らは主への務めを守って、旅立たなかった。
また、雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。
雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らは旅立った。昼でも夜でも、雲が上れば旅立った。
二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって、去らなければ、イスラエルの子らは宿営を続けて旅立たなかった。しかし、雲が上ったときは旅立った。
民数記 9章18~22節
動かない時期もありました。「二日でも、一月でも、あるいは一年でも」反対にたった1日で次に移動する時もありました。自分達の都合が良い悪いは関係なかったです。私たちの中心に神様がいてくれることが大事でした。離れずいてくれるし、私たちもそれについていくことが一番大事でした。
※この雲の柱はどこに連れて行ってくれるのか?
それは安息の地、祝福の地です。乳と蜜の流れる祝福の土地に連れていく、と約束してくれています。
出エジプト3.17
「わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し、…乳と蜜の流れる地へ上らせると言ったのである。」
そして新約聖書は、イエス様を信じる私たちも、雲は見えないけど、御霊によって、栄光の希望に向かって導かれていることが何度も書かれています。この希望があるから、僕らは喜んで神様に従いたい、ついていきたい、と願います。神様の導きは平安の道、祝福への道です。
⚫️神様の導きは「平安」
雲の柱が動けば動きます。止まれば止まります。まるで二人三脚です。
二人三脚、やったことがありますか?人間同士の二人三脚はストレスです。
既婚者の皆さん「一人だったら楽だったのに」と思うことありますか?小さなお子さんを抱えている皆さんはどうですか?歩幅が違って考えが違って、方向が違います。ぶつかることも多いと思います。
聖書は僕ら人間はみんな欠点があり、自己中心だと言います。だから二人が一つになって進むのは大変です。
では、神様との二人三脚はどうですか?どう思いますか?
答えは「平安」です。軽いし、安らぎがある、とイエス様はおっしゃいました
"すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」"
マタイの福音書 11章28~30節
くびきっていうのは、聖書の時代の農業で2頭の牛を同時に歩かせるための首輪のようなものです
イエス様とつながるなら、安らぎがきます。理由はイエス様が「柔和でへりくだっているから」です。
イスラエル人たちの大群衆はこの神様を見ながら、その動きに従って一緒に進みました。
※見える導き 契約の箱
もう一つ、見える導きには契約の箱がありました。雲の柱、火の柱が進むことを、10章の最後は、契約の箱が先導して導いた、と言い換えています。
(10章33-34節)
こうして、彼らは主の山を旅立ち、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先に立って進み、彼らが休息する場所を探した。
彼らが宿営から出発する際、昼間は主の雲が彼らの上にあった。
契約の箱とは、神様のと人間の契約が入った箱です。十戒とも言われますが、要約すると、「あなた方は神様だけを愛し、そして隣人を愛するようになる」と言う契約です。
つまり契約の箱は、「愛の生き方を約束する箱」でした。
神様を愛し、人を愛する、という約束が人々を導きました。このことは、僕らと関係があります。後で詳しくお話しします。
2 今の時代の神様の導きとは?
さて、今の時代、僕らはどのように神様の導きを知るのでしょうか。
私たちにはわかりやすく雲の柱があるわけじゃないです。夜はいつも火の柱があるわけじゃないです。でも神様が一緒にいてくださいます。神様は「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」とおっしゃいます。(ヘブル13.5)
でも、日々迷います。どっちですか、いつですか、と迷います。
神様は一緒にいてくれます。そして、優しい羊飼いのように声をかけます。
(ヨハネ 10:27)
わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。
神様の羊はイエス様の声を聞き分けます。
イエス様を信じることは、イエス様の霊が御霊が与えられることです。
御霊が与えられると…?
→神様のことばがわかります。
→神様からの愛が与えられます
→力も与えられます。
教えるだけでなく、その力を与えてくれます。神様を愛し、人を愛する力を与え導いてくれます。
神様は見えないけど、この愛と力が与えられて、神様を愛し、人を愛するとき、見えない神様がそこに現れているかのようです。聖書は、僕らの中に愛があるなら、あなた方がキリストの弟子だとわかる、と言います。
(ヨハネ13章35節)
互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。
雲の柱を見て「神がおられる!」と分かったように、互いに愛する姿を見て「神がおられる!」とこの世は知ることができます。
神様の愛とは、ほんわかしたいい感じではなく、イエス様の愛とは、犠牲です。
人間からは出ないものです。性欲的なものとは全然違います。神様の愛は相手のために自分を失い、時には傷つくことです。これはイエス様からだけ流れてくる愛です。しかも、そこには平安と喜びがあります。修行とか禁欲主義ではなくて、神様からしか与えられない愛です。自分の力ではありません。
あの箱には石の板が入っていて神様の約束が書かれていました。要約すると「神様があなたを愛してる、だから、あなたも神だけを愛するものになる。あなたは人を愛するものになる」というものでした。
そして、その約束は、今は契約の箱にあるのではなくて、聖霊が与えられた人の心の板に刻まれています。
(2コリント3.3)
生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものである
神様の臨在は神様の愛の中に現れます。愛とは神様のための犠牲です。隣人のための犠牲です。
そして犠牲を伴う愛には平安と喜びがあります。これが私たちの行くべき道、私たちを導く雲の柱、御霊の導きです。神様の導きは 「愛」です。
僕らが迷う時、神様の導きを知りたい時、それは、「どちらがイエス様の愛の導きか」考えるとわかります。そして御霊の導きには、平安と祝福があります。
※一空のエピソード
七年くらい前になりますが、OMFの責任者から僕ら夫婦が呼ばれました。一空が大学生の時です。
OMFは一空が大学を卒業したら生活費の1部を援助するから、教会でインターンとして訓練しませんか?と提案してくれました。その話をいただいたとき、僕らは即決で、その場でお断りしました。なぜなら直感的に「お金もらえるなら献身します」っていう選択はないと思ったからです。
イエス様のために自分を手放したい、イエス様のためにお金もささげたい、というのが御霊の導きです。
支援金が出るから進みます、というのは神様ではない、と思いました。
お断りして清々しい気持ちでいたのですが、しばらくして今度はKGKから話があり、最終的にはKGKとOMFが協力して支援してくれる形に落ち着きました。結果的に一空はGAになり教会のインターンになりました。神様に感謝OMFに感謝、KGKにも感謝です。
※岳ちゃんのエピソード
今回、僕らは岳さんをインターン牧師として迎えようとしています。
サムライプロジェクトに申し込んだら、生活費の半分を支援してもらえる、という話がありました。月に20万円かかるとしたら、10万円はサポートしてもらえます。私たちはそれを申し込みましたが、少し前、神様は分かりやすくそれをなくしてくださいました。先方の都合でサポートはなし、という連絡が来ました。それを聞いて私たちはなぜか清々しく、ワクワクしています。
お金がないのに、私たち教会はインターンを迎えようとしています。つい先日、岳さんの住まいとして隣のアパートを契約しました。だのに、支える会の口座には2万数千円しかありませんでした。9万円ほどの初期費用が払えなくて、祈ってくださってる方々、約60人に事情説明と祈りと支援のお願いの一斉メールをしました。まだ一週間も立たないのですが、多くの方々が犠牲を払って送金してくださって、22万円以上が与えられました。それを知って支える会の私たちは主を恐れ賛美しています。
協力してくださった皆様、ありがとうございます。
見えない神様の導きは、御霊から与えられる愛によって、犠牲を払って愛し合う時に見えるようになります。
一緒に犠牲を払ってお金を支援してくださった方々は、お金持ちではありません。年金だけで生活している方々もたくさんいます。
その方々が1000円とか、3000円とか送ってくださるのは大きいことです。生活費を切り詰める必要があります。でも、神様からの愛と力によって献金してくださった方々には喜びがあります。今月の生活費足りなくなるかもしれないのに、喜びがあり、平安があります。これが御霊から流れる愛と力です。
もし、これがイヤイヤだったらやめた方がいいです。お互いに良くありません。
神様の栄光や導きは、人間関係に現れます。そして、神様を礼拝する姿に現れます。つまり、神様を愛する方向、そして人を愛する方向が神様の導きです。
御霊が導かれます。相手を尊敬することを選び、ゆるすことを選びます。そこに神様の栄光が導きがあります。
私たちはよく「あの人と関わるの嫌だ。こんなことが起こったらどうしよう。あんなことが起こるんじゃないか、こじれるんじゃないか」と言って恐れます。「だから関わるのをやめておこう。」という選択も可能です。これでは神様の栄光が現れないのです。祝福と平安への道もわからなくなります。神様から与えられる愛の力は、自分が犠牲を払っても愛し受け入れようとすることです。
これは人間から出るものではなく神様からの印です。雲の柱、火の柱の導きは、見えません。
でも、御霊の導きはわかります。
苦行ではないし、禁欲主義とか、修行でもありません。
聖霊の導きには愛があります。平安があります。喜びがあります。
犠牲を払っているのに、平安があります。
御霊は神様を愛し、人を愛するように導いておられます。
見えなくても匂いや音はわかります。神様の導きに従おうとする新しい愛の生き方を与えてくれます。
この世からは、損だと言われたり、マイナスだとか効率が悪いとか言われる選択かもしれません。
それでも、神様と一緒に歩むのが道です。
傷つくことがあっても神様を愛する道、人を愛し赦して受け入れていく道。
です。その先には希望があります。喜びがあります。祝福があります。
乳と蜜の流れる場所、栄光の場所に神様が僕らを連れて行こうとされています。
先週召された三人の兄弟姉妹たちも、忍耐して希望を持ってイエス様と一緒に地上での苦しい人生を終えました。彼らには栄光の冠が用意されています。
僕らも希望を持って歩みましょう。神様との二人三脚です。イエス様と一緒に忍耐し、愛し、歩みましょう。ハレルヤ!
質問です。考えてみましょう。
あなたが求め、従っているのは何でしょう。
快適さ
思い通りになること
御霊の導き
御霊の愛と力
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