民数記34.9-34
神様はやっぱり「きれい好き」です。神様が与えようとして土地の中に、汚い罪がないように、特に人を傷つけ人を殺すことは「土地を汚す」といいます。その土地は「わたしが…ただ中に宿るから」です。(34)
"あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地にとって、そこで流された血は、その血を流した者の血以外によって宥められることはない。
あなたがたは、自分たちの住む土地、わたし自身がそのただ中に宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエルの子らのただ中に宿るからである。」"
民数記 35章33~34節
殺人は個人の問題ではなくその土地全体を汚し、その人たち全体を汚す問題です。だから誰かを殺した人は殺さなければなりません。土地がきよめられるためには「その血を流した者の血」が必要です。
"土地にとって、そこで流された血は、その血を流した者の血以外によって宥められることはない。"
民数記 35章33節
人がいきなり殺人をすることはなくて、まず小さな「恨み」「憎しみ」「ねたみ」が芽生え、それを放置するうちに成長し「死ねばいい」「死んでくれ」「殺してやる」になり、それが行動に出ます。(ヤコブ1.13-14)
神様が見ているのは「心」です。
殺意をもって殺した人は必ず正しくさばかれ、殺され、その土地がきよく保たれるように、と教えます。
"もし鉄の器具で人を打って死なせたなら、その人は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。
もし、人を殺せるほどの、手に持てる石で人を打って死なせたなら、その人は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。
あるいは、人を殺せるほどの、片手に持てる木製の器具で人を打って死なせたなら、その人は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。
血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼に出くわしたときに、殺してもよい。
もし、人が憎しみをもって人を突き倒すか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせたなら、
または、敵意をもって人を手で打って死なせたなら、その打った者は必ず殺されなければならない。その人は殺人者である。その血の復讐をする者がその殺人者に出くわしたときには、彼を殺してもよい。"
民数記 35章16~21節
問題は殺人が起きてからでではなく、すでに芽を出している心の中の小さな憎しみや怒りや敵意です。だから小さいうちに捨てなさい、と聖書はいいます。
"無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。"
エペソ人への手紙 4章31節
逆に、悪意がなく、憎しみもないのに、不慮の事故で誰かが死んでしまうこともあります。それは罪に問われず、その人は「逃れの町」で守られます。
神様は復讐や不要な仕返しから守られるように、「逃れの町」を作るように命令しました。悪意がなかった人、意図しない事故で人を殺してしまった人はそこに逃れることができて、過剰な復讐や相手側からの攻撃から守られます。
"このヨルダンの川向こうに三つの町を、カナンの地に三つの町を与えて、逃れの町としなければならない。
イスラエルの子ら、または彼らの間に在住している寄留者のために、これら六つの町は逃れの場所となる。すべて誤って人を打ち殺してしまった者が、そこに逃れるためである。"
民数記 35章14~15節
"もし敵意もなく突然人を突き倒し、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、
または、人を死なせるほどの石を、よく見ないで人の上に落としてしまい、それによってその人が死んだなら、しかもその人が自分の敵ではなく、害を加えようとしたわけではないなら、
会衆は、打ち殺した者と、血の復讐をする者との間を、これらの定めに基づいてさばかなければならない。
会衆は、その殺人者を血の復讐をする者の手から救い出し、彼を、逃げ込んだその逃れの町に帰してやらなければならない。彼は、聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。"
民数記 35章22~25節
神様が見ておられるのは、結果ではなく動機です。人は結果を見ますが、神様は心を見ます。たとえ殺さなくても、心の中で密かに憎しみや殺意を育てたままにしているなら、すでに実行犯と同じです。
だから、イエス様は人を憎しみ怒ることも、逆に恨まれていることも、まだ相手に謝ってないことも、小さいうちにそれを告白し、きよめてもらうように教えます。
"昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。
ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、
ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。"
マタイの福音書 5章21~24節
どんな殺意も、憤りや憎しみも、イエス様に告白して手放すなら解放されます。本当です。ちゃんと口で告白して、神様に明け渡してそれをやめます、と祈ることです。どんな罪もイエス・キリストの十字架によってきよめられます。憎しみを放置するなら人殺しです。
"兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。
ヨハネの手紙 第一 3章15節
僕らの心が汚いままなら死刑と同罪です。そんな僕らの罪を、イエス様は引き受けてくださいました。僕らの中にある罪を引き受け、十字架で血を流してきよめてくださいました。赦しやきよめはイエス様の十字架の血によります。この方以外には、どんな方法も与えられていません。(使徒4.12)
"御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。"
ヨハネの手紙 第一 1章7~8節
神様はやっぱり「きれい好き」です。神様が与えようとして土地の中に、汚いものがように、今日も小さな罪を告白して捨てましょう。僕らの心も体も神様の住まいです。教会は神様の住まいです。個人の問題ではありません。それは全体を汚します。今日も告白し、赦されたことを信じ、きれいにしていただきましょう。相手を愛しましょう。ののしる人を祝福しましょう。
「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」(エペソ4.32)ハレルヤ!
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