2026年5月26日火曜日

賛美奉仕者の学び 2026-①  

 賛美奉仕者の学び 2026-①  


皆さんに質問です。

どんな賛美が良い賛美で、どんな賛美がイマイチですか?

今までの賛美体験の中で、神様が近く感じた、神様の凄さに圧倒された、神様が語っておられるようだった、自分の罪深さに圧倒された、涙が止まらなかった、など神様体験を一つ分かち合ってください。


🔴ポイントその1 

賛美奉仕者はみことばを伝える人


(歴代誌 第一25章1節)

また、ダビデと軍の長たちは、アサフとヘマンとエドトンの子らを奉仕のために取り分け、竪琴と琴とシンバルに合わせて預言する者とした。


(6-7節)

これらはみな、その父の指揮下にあって、シンバル、琴、竪琴を手に、主の宮で歌を歌い、王の指揮下に神の宮の奉仕に当たる者たちである。アサフ、エドトン、ヘマン、

彼ら、および、主にささげる歌の訓練を受け、みな達人であった

彼らの同族の数は二百八十八人であった。


ダビデが作った聖歌隊のリーダーたちは、楽器を持って預言する人たちでした。

7節の「達人」も預言者であって、みことばを人々に悟らせる達人です。

演奏もするけど、その目的は明らかに神様のみことばをはっきり人々にわかるように導く人です。辞典で調べるとgive to understanding とあります。楽器のうまさもあるけど、それは神様の栄光と神様のみことばを人々に明らかにするための上手さです。


🔴ポイントその2

賛美奉仕者はみことばと主の栄光だけが残ることを願う人


楽器の伴奏とか歌の声とかそういうのは消えて、最後には神様のご栄光とそのみことだけが残るように奉仕します。バプテスマのヨハネが言ったように「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3.30)私が消えていき、神様のご臨在だけが人々に残るように導くのが賛美奉仕者です。


(詩篇115.1)

私たちにではなく 

主よ 私たちにではなく

ただあなたの御名に栄光を帰してください。


集会が終わった時に「遠藤先生の今日のピアノ上手かった!」って、僕には励ましでもあるけど、集会の目的はそこではありません。「あのギターの人うまかったなー」「俺もああなりたいな」も神様中心ではありません。

「今日、神様がここにおられることがわかった」「神様の御言葉がはっきりわかった」「神様の栄光に圧倒された。」それを目指します。歌の中でみことばが心の中に入るように、主のご臨在が現れるように仕えるのが賛美奉仕の役目であり目指すところです。

集まる人たちに御言葉だけがはっきりと示され、人々が神様の素晴らしさだけを見上げるような賛美チームになれるかどうかが問われています。


そのためには音楽的な準備も必要です。

全然準備してない伴奏で、今日、楽譜初めて読む、伴奏する人もよくわかってない伴奏だったら、集まる人たちも神様に心が向きずらいです。ミスばかり気になったり、伴奏が時々止まっちゃったりするようならむしろ邪魔になります。なので、予習、個人礼拝、すごく大事です。


間違わないで弾くのが目的ではなく、神様に心を向け、歌詞に現れる神様の素晴らしさを思い、神様の栄光の前にひざまずく気持ちで弾けるようになるまで準備することです。

伴奏やリードする人がそこまでいけないと、集まる人々もそこまで行きずらいものです。

だから技術も練習も大事です。でも、一番の練習は神様のみことばを掲げ、神様を見上げて歌う、という練習です。日々の練習も、本当にここに神様がおられる、思い礼拝することが目標です。


賛美奉仕者は「演奏者」ではなく「礼拝を導く奉仕者」です。この自覚が必要です。

人々を神様の前にお連れし、先頭に立って、まず神様の前に出る人です。

神様の前に音楽をささげ、歌をささげる人です。そして神様の御言葉を与えられ、それを人々にはっきりと示す人です。これが聖書が教える賛美奉仕者です。


日々の祈りとして、神様のことが自分もみんなもはっきりわかる賛美にしてください、神様が確かにここにおられることを表す賛美にしてください、そのための奏楽にしてください、と祈りつつ準備しましょう。


🔴ポイントその3

賛美奉仕者は変えられたいと願う人


そこに向かいたいと思う人は成長します。変えられます。

みんなその途中です。完成した人はいません。たどたどしい賛美奉仕であっても、神様は喜んでくださいます。


子どものピアノの発表会はドキドキします。演奏が止まりそうな人もいます。それでも親は頑張れーって応援します。神様も同じように、それ以上に、どんなに幼い賛美でも応援してくださいます。

賛美の奉仕も初めての人は緊張したり、間違って止まりそうになったりします。

それでも応援するし、もうやめろ、とは言いません。子どもが挑戦していることを親は喜び応援します。

子どもが喜んでお父さんの誕生日の歌を歌ってるなら、「パパありがとう!大好き!」と歌ってるなら音程のズレは問題ではありません。

子どもたちがお父さんを喜んでいることはお父さんの喜びです。


教会の伴奏もそうです。神様を愛し、神様に喜んでほしい、と願っていることが神様の喜びです。どんなに幼くても喜ばれています。練習の方向性は、神様に向かう練習、神様を喜び、神様に向かう練習、神様を喜びとし、感謝する練習です。そして、神様の素晴らしさを表現する練習です。


どんな神学校に行っても、変えられたいと願わなければ意味がありません。その求めがなければ、有名な神学校を卒業しても意味がありません。


自分がこれでいい、このままでいい、変えられたくない、と思うなら何も成長がありません。

完成している人はいません。もっと神様に近くありたい人になりたい、って願う人。

もっと神様の栄光を見たい、そして、みんなと一緒に神様の前に行きたい、って願う人。

もっと変えらて神様に喜ばれたいと願うことは賛美奉仕者にとって大事なことです。


今みんな途中です。だから幼い奉仕はだめだ、ということはありません。


🔴ポイントその4

賛美奉仕者は主の元に導く案内人


賛美奉仕者は集まった人々を神様の御もとに導く案内人です。先に神様のもとに行って人々を案内する人です。演奏者ではありません。

いい感じの音楽で満足させる人ではないし、淡々と業務的に伴奏する人でもありません。神様との生きた関係に人々を導く案内人です。


歌の人も、オルガンの人も、ピアノの人もベースの人も、この意識を持つと変わります。

私たちは人々を代表して神様の前にお連れしている、という意識です。この自覚があるか無いかで礼拝は変わります。


登山のガイドでも、旅行のガイドでも、ガイドはあらかじめ経験がある人です。

山を何度も登ったことがある人、旅行なら現地に行ったことがある人、そこに住んでいる人がガイドになれます。


同じように、まず自分が神様の前に何度も出ている人です。日々、音楽で、歌で、主の前に出る経験をいつもしている人が人々を導く案内人になれます。


まずは自分が神様の前に出ること、まずは自分が歌詞を通して神様を体験し悟ることが前提です。

その御言葉を人々と一緒に掲げるために一緒に歌い、伴奏します。この素晴らしい神様のもとに連れて行きます、この素晴らしい御言葉の前に連れて行きます、という意識が大事です。


日々、まず自分がみことばを食べて、賛美を歌っている人がリードできます。当然です。

スイミングスクールの先生は泳げる人です。

賛美リードする人は、自分が賛美し礼拝している人です。

誰よりもみことばを読み、聞き、学び、喜んでいる人です。

その人は人々をリードできます。


実はこれはプロジェクターを出す人も音響の人も配信の担当もカメラの人もそうです。目的は神様の前に人々をお連れすることです。神様の真理の御言葉がはっきりと音楽に乗せて現れるために、真理を掲げるためにプロジェクターを使い、音響を使い、カメラを使います。

神様の栄光と真実さの前に人々を導くための奉仕者です。


聖書が「みな達人であった」とあります。みんなこの意識があったし、そのための技術があったと言うことです。みことばを掲げるために、主の栄光のために、人々をその前にお連れするために奉仕している、と言う意識が大事です。


🔴ポイントその5

賛美と感謝はご臨在に近づく方法


(詩篇100篇4節)

感謝しつつ主の門に賛美しつつその大庭に入れ。主に感謝し御名をほめたたえよ。


ほとんどの教会ではメッセージの前に賛美があります。

賛美をもって神様の前に来なさい、感謝で大庭に入りなさい、聖書は言います。詩篇22篇によると、神様は賛美を住まいとしておられます。


日常でもそうです。朝起きて祈ります。ディボーションをします。それもまず賛美し感謝することからスタートです。そもそも、天の神様の前には賛美と栄光しかありません。天では神様のご臨在の周りで数えきれない大群衆の賛美と感謝が満ちています。

賛美と感謝は神様に相応しいものです。


(黙示録5章8節)

四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊の前にひれ伏した。彼らはそれぞれ、竪琴と、香に満ちた金の鉢を持っていた。香は聖徒たちの祈りであった。


(詩篇22:3) 

けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。


その天国の礼拝を表すのが地上の礼拝です。天の礼拝にお仕えするのが地上の賛美チームです。

地上の生活がどんなに苦しい状況でも、天では賛美が満ちているし、神様が賛美されなくなることはありません。

だから、一旦自分の問題は脇に置いて賛美することです。

自分がああです、こうです、こうなりたい、助けてほしい、ってのは一旦は脇に置いて、神様がどんなに偉大で栄光に満ちているか、力に満ちているか、その神様を思い巡らし、感謝し、賛美するときに、僕らはそのご臨在に近づけます。


僕らは自分の話ばかりしたがります。

そして、自分の音を聞いてほしいって思います。

自分がどう思われるんだろう、今の歌は音程はどうか、って思います。

そんなことばかり考えていると、神様との交わりが遠くなります。

自分の意見、主張、自分のための演奏ははっきり言って邪魔です。

自分も人々も神様からどんどん遠くなってしまいます。


健全な、そして親しい神様との交わりに自分が入り、そして人々もそこにお連れする方法は演奏じゃありません。主を賛美し、主に感謝を捧げることです。演奏することではないです。主の御言葉を掲げることです。歌詞に表された真理を高く掲げ、宣言することです。


賛美の中で神様の前にへりくだり、主の栄光を仰ぎ見る健全な交わりが深まっていくほど、みことばも入りやすくなります。聖書朗読の時も、メッセージの時も、心が開かれ、へりくだって、作り替えてください、私はあなたのものです、という明け渡しが大切です。

自分のことばかり気にしていると神様が遠いままです。

良い音楽を聞かせなきゃとか、自分のことが中心になっていると、みことばも入ってこないし、集まる人々からも神様を遠ざけてしまいます。


🔴実際の日々の練習方法


練習で大事なことは、今の演奏、神様にどう思われたかな?と思って練習することです。

神様の前で演奏できたか?神様の栄光のためだったか?それとも自分のためだったか?

そういう練習です。歌や楽器が神様の栄光にお仕えするものだったか、感謝をささげるものだったか、そういう視点で日々練習するのをお勧めします。

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