2026年7月5日日曜日

使徒の働き9章1-21節 メッセージ 「教会を傷つける人にさえ恵みを注がれるイエス様」

 使徒の働き9章1-21節 メッセージ

「教会を傷つける人にさえ恵みを注がれるイエス様」


●当時の状況とサウロの怒り

 

この時代は僕らがイメージするようなキリスト教ではなくて、旧約聖書を信じるユダヤ教の人たちが集まる会堂の中に、イエス様がキリストだと信じる人たちが増えていった、というのが当時のクリスチャンです。

彼らに宗教何?って聞かれたら「ユダヤ教です」って答えます。なので、ユダヤ教の会堂に今まで通りに集まって礼拝していました。

彼らは旧約聖書を信じています。そして旧約聖書で預言されているキリストがイエス様だと信じています。今もイスラエル人のクリスチャンは同じように言います。

「私はイエス様はメシア、キリストだと信じているユダヤ人です。」英語では「メシアニックジュー」と言います。実際はクリスチャンのことです。

当時、ユダヤ教の全国組織の中に、イエス様を信じる信者たちが増えてきた、とイメージしてください。


それを許せないのがサウロです。

彼は保守的な律法学者です。「あのイエスがキリストであるはずがない。メシアではない。この由緒正しいユダヤ教の中に異端が入り込んでいる!おかしな教えが入っていて、イエスが救い主だとか、キリストだとかいう人がいる!」という怒りです。「私は律法学者として正さなければならない、そのような人たちを見つけ出して排除しなければならない」と言う正義感です。その様子が8章に書かれています。


(8章3節)

サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。 


そして1節から2節です。


"さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、

ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。"

使徒の働き 9章1~2節


ダマスコの諸会堂、とはユダヤ教の会堂です。この全国組織のトップは大祭司です。

それで、大祭司のところに行って、許可をもらいました。「この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来る」という許可です。彼はイエスを信じるおかしな人がいたら、見つけ出してそこから縛り上げ許されき引っ張ってきて、処刑する許可を得ました。


エルサレムからダマスコまでの距離を調べたら359キロ。馬車なら一週間、徒歩なら10日以上です。

サウロはどれだけ遠くても、どれだけ大変でも、クリスチャンを捕まえて罰を与えたかったようです。

サウロの頭の中では、クリスチャンは反逆者であり、異端であり神を冒涜する人たちです。彼は怒りと憎しみと正義感をエネルギーにしてダマスコまで旅をしました。


"ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。

彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」"

使徒の働き 9章3~4節


なんと彼はそこでイエス様と出会いました。イエス様と出会うことは、光と出会うことでした。

強烈な目を開けてられない光が天から照らしました。聖書は何度もイエス様のことを、太陽よりも強い光とか、稲妻のような顔、と言います。誰も目を開けてられない、近づけない光だと聖書は言います。サウロは地面に倒れました。彼はイエス様からの言葉を聞きます。


(4節)

「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」


●クリスチャンへの憎しみはイエス様への憎しみ


「教会の人たちへの態度=イエス様への態度」

これは聖書全体で繰り返し言われていることです。もちろん、教会の中にある間違いを指摘したり互いに戒めたりするのを否定しているのではありません。でも、教会を憎み傷つけることは、キリストの体を傷つけることにつながります。サウロが嫌っていたのはクリスチャンです。憎み、殺意に満ちて引きずり出し殺そうとしていました。


ところが、イエス様は2回も「なぜわたしを迫害するのか」「わたしはあなたが迫害してるイエスである」とおっしゃいます。(4節、5節) イエス様につながる人たちへの攻撃はそのままイエス様への攻撃です。


彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」

彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。"

使徒の働き 9章4~5節


イエス様は教会の人たちへの行為をご自分への行為だと言われます。

他の聖書の箇所でもご自分に属している人への態度をご自分への態度として言われています。


"これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』"マタイの福音書 25章40節


"わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。"

ヨハネの福音書 13章20節


イエス様は教会を単なる仲間たちとは見ていません。「教会はキリストのからだ」です。(1コリント12.27)だから教会への憎しみはご自分への憎しみとされます。キリストのからだは一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみます。(1コリント12.26)もちろん、その苦しみはかしらであるイエス様が一緒に背負って下さいます。皆さんが傷つくとき、苦しめられる時、それはイエス様の悲しみであり苦しみです。弱くて足りない一人一人がイエス様にとって大切なからだの一部です。

クリスチャンへの迫害は、イエス様自身への迫害です。


皆さんが今抱えている苦しみ、受けている傷、それはイエス様の苦しみであり、イエス様の傷です。


逆に、もし皆さんが教会のあの人を嫌い、傷つけているなら、それはイエス様の苦しみ、イエス様への憎しみです。教会へを攻撃することは、イエス様に向かって唾を吐くのと同じです。それは結局自分を苦しめ傷つけます。イエス様は言います。『とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』(使徒26.14)イエス様に向かって攻撃することは自分を苦しめ痛めつけることです。僕も実際に教会を攻撃して傷つき、苦しんでいく人たちを見ました。教会を攻撃することは自分を傷つけること、クリスチャンへの憎しみはイエス様への憎しみです。


●サウロにさえ恵みを注がれるイエス様


クリスチャンを迫害し苦しめるサウロはその場で裁かれ滅ぼされてもおかしくありませんでした。


クリスチャンから見てもサウロのやってることは今すぐ止めてほしい存在でした。

「神様、なんでこの人を放っておくんですか?」「なんで迫害を止めてくれないんですか?」

「なんでこの人を裁かないんですか?」そう思っていたはずです。

でも神様は、サウロをすぐには裁かなかった。むしろ、救うために準備しておられました。

イエス様はサウロに言います。


"立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」

同行していた人たちは、声は聞こえてもだれも見えないので、ものも言えずに立っていた。

サウロは地面から立ち上がった。しかし、目を開けていたものの、何も見えなかった。それで人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。

彼は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。"

使徒の働き 9章6~9節


サウロは目が見えなくなりました。今までは見えていると思ってました。「私はわかっている」と思っていました。「私は旧約聖書の先生だ」と思ってたいました。だけど、サウロは何も見えてなかったことを知らされます。


"自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。"

コリント人への手紙 第一 8章2節


そのことをまるで象徴するかのように、彼は3日間目が見えなくされます。でも、実はずっと心の目は見えてなかったのです。サウルは闇の中で祈りました。あの人たちを殴り引きずり出して縛り上げていた事は、キリストを殴り縛り上げてきたのでした。神様、ごめんなさい、と恐れ、悔い改めました。自分が握りしめ、正しいと思って誇っていたことが間違っていました。

三日間飲み食いせずに祈る中で、彼は神様から1つの幻を示されました。


"彼は幻の中で、アナニアという名の人が入って来て、自分の上に手を置き、再び見えるようにしてくれるのを見たのです。」"

使徒の働き 9章12節


アナニアと言う人がきて、あなたの上に手を置き、もう一度見えるようにしてくれる。そういう幻が与えられました。そしてそれは現実のことになりました。


神様は今も時々、僕らが本当に心の目が見えるようになるために、順調に走っていた人生を止めたり、

思い通りにいかない状況を許したり、苦しい経験を通らせたりすることがあります。

でもそれは意地悪じゃなくて、心の目を開き、見えなくしていた不要なプライドや握りしめていた何かを手放すことで、目からウロコが取れて、本当に大事なものを見せるためです。


サウロは今まで人生をかけて追いかけてきたものが間違っていたことを教えられました。苦しかったと思う。彼は宗教的には超エリートだった。学歴もあった。知識もあった。情熱もあった。努力もしきました。でも、それが彼の目を見えなくしていました。


そんなサウロなのに、それでもイエス様は彼を愛し、赦し、ご自分のものとして迎えてくださいました。


●アナニアの決断


この話はサウロの奇跡だけではありません。

アナニアも変えられています。

アナニアにとってはサウロは恐怖です。

あの人だけは無理です。神様、やめた方がいいです、近づきたくないです、と思っていたはずです。あの人がどんなひどい人かというのを、神様に言うんですね。


"しかし、アナニアは答えた。「主よ。私は多くの人たちから、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。

彼はここでも、あなたの名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから与えられています。」

しかし、主はアナニアに言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。"

使徒の働き 9章13~15節


まさかです。一番の敵を神様は用いようととされていました。

アナニアにとっては足がすくんだと思います。「なんで私があのサウロのところに行かなきゃならないんですか?無理です」って最初は思ったと思います。

でも、イエス様は言われます。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。」


アナニアは従う決心をしました。大きな決断です。

そいて、彼のところに行き、家に入り、的である迫害者サウロを「兄弟」と呼びます。


"そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」"

使徒の働き 9章17節


「兄弟サウロ」

あなたも神様の子です。だから、「兄弟サウロ」と呼びました。

自分たちの仲間を殴り、縛り、殺してきたサウロのことを「兄弟」って呼びました。これは神様の奇跡です。御霊によらなければあり得ない呼びかけです。


アナニアがイエス様に言われた通りに手を置いて「兄弟」って祈ったときに、彼は変えられました。もう一度見えるようになりました。


(18-19)

するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、 

食事をして元気になった。


目から鱗のようなものが落ちました。それはまるで彼を盲目にしていた彼の思い込みが地面に落ちたかのようです。

誇りとしてきたものが彼を見えなくしていたし、彼を縛っていました。目からウロコのようなもの落ちて、見えるようになりました。彼は見えるようになりました。


敵を「兄弟」って呼ぶことは、アナニアにとっても大きな決心だったと思います。

僕らにも問われます。イエス様が自分の敵を愛しなさい、と言われています。その覚悟を問われます。

今日のタイトルは「教会を傷つける人にさえ恵みを注がれるイエス様」です。


皆さんにとって受け入れられない人は誰ですか?

敵は誰ですか?その人はもう悔い改めることがなく、一生神の敵、あなたの敵のままでしょうか。

サウロは帰られました。自分の正義感をと怒りで人を傷つけ、教会を破壊してきた彼でさえ変えられました。


数日前まで教会を憎み、イエスキリストを憎み、クリスチャンを壊滅させるためにダマスコまでやって来たサウルが、同じダマスコで「この方こそ神の子です」と伝えています。(20節)彼の喜びが溢れています。

神様が招き用いる人は「良い人、正しい人」ではなくて「罪人」です。イエス様がそうおっしゃいます。


"わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」"

ルカの福音書 5章32節


僕らもかつては神様に敵対する敵でした。そう考えると、「あの人はもうムリ。」などと簡単には切れません。神様は最悪の人を選び、悔い改めさせ、神様の器に変えることができます。イエス様はおっしゃいます。


"わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。"

マタイの福音書 5章44節


僕らの判断と神様の選びはしばしば違います。


僕らは人の失敗を見ます。でも神様はその人を用いることができます。僕らは他人の罪を見ます。でも神様は十字架に血による赦しを見るように言われます。


●適用


僕らが心を閉ざして「あの人にこんなひどいことされた」だけで終わっている人がいるかもしれません。

まずは恐れていることを正直に「怖いです。」とか、「赦せません。」と神様に打ち明けることです。


僕らも赦されました。僕らも神様に敵対していました。だのに、僕らも「兄弟」と呼ばれて受け入れられています。その大きな愛と恵みを数えるときに、僕らも少しずつ敵のために祈る力が与えられていきます。


イエス様が自分を受け入れてくださったように、相手を受け入れる愛と力を与えられますように。過去の姿だけで人を決めつけず、神様がしてくださる恵みと愛に目を向けていくことができますように。


教会は正しい人の集まりではありません。イエス様に赦された罪人が葛藤しながらも互いに赦し、受け入れながら歩もうとする人たちです。


サウロは教会に受け入れられました。そして僕らも受け入れられた罪人です。

教会はサウロを受け入れました。だから僕ら教会も自分たちだけの居場所にせず、悔い改めて帰ってくる人を受け入れることができますように。


皆さんが恐れてる敵は誰でしょう。

もうあの人は無理、と思っている人は誰でしょう。

今日、もう一度祈りましょう。

サウロが変えられ、兄弟として受け入れられ、用いられ、新約聖書の多くの書いたパウロとなりました。

僕らが祈るべき敵は誰でしょう。

「あの人は無理、関わりたくない」と思う人を一人あげて祈りましょう。


※聖餐式

今日いただくパンと杯は、
敵だった私たちを家族にするため、「兄弟」と呼んでくださるために流されたイエス様の血です。

サウロのためにも流されました。僕らのためにも流されました。

そして、今私たちが「無理」と思っている人のためにも流されました。

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