2026年6月7日日曜日

使徒7:9-35、51-60 「拒絶と苦しみの先に現れる神様の大逆転」メッセージ

 

聖書朗読 使徒7:9-35、51-60

「拒絶と苦しみの先に現れる神様の大逆転」


●イントロ


人間はいつも、自分の栄光を求めます。自分が良くやった、自分はすばらしい、とか、そういうことを求めたがります。また自分の安全を求めます。

でも、時々それらが全部奪われることがあります。もうだめだ、失敗した、終わったと見える時があります。今までガッカリしたことみなさんもあると思います。

でも、神様は見放してません。むしろ自分の力とか、立場とか、自分の良さを失ったときにこそ、神様の力が現れ、神様の栄光が輝く、そういうことがよくあります。

僕らも経験します。頑張ってる時は自分の手柄です。でも、もう無理、できないって思ったのにさせてもらった時、与えられ時、神様を体験します。神様のおかげ、神様の愛と力です。


自分を失った時に、神様の命が始まることの実例を聖書は何度も書いています。


イエス様も自分を失いました。人々に嫌われて死刑になりました。

無罪なのに、妬まれ、嫌われ、馬鹿にされて殺されました。みんな逃げていきました。

けどもそれで終わりません。

それが始まりです。復活して、弟子の前に現れ、そして、天にのぼり、すべての権威、力、栄光をもっています。今もです。王の王、主の主です。一粒の麦が死ななければ一粒のままです。しかし、死ねば多くの実を結びます。


人から見たら最悪だったとことが、神様の大逆転のためだったことが良くあります。

人が上手くいかなかったのに、失敗したはずなのに、神様がもっとすごいことをしてくださる、ということです。人の手柄は消えていきます。でも、その時にこそ神様の栄光はさらに輝きます。


今日の話は御霊に満たされたステパノのメッセージです。

しかも、自分を殺したいと思っている人たちに囲まれている時の説教です。


ステパノは特別に聖霊に満たされて人を癒したり、立ち上がらせたりしていました。

そうすると、当時の指導者たちから妬まれ、憎まれます。毎回のパターンです。

人々は彼を妬み、訴えるために民衆を扇動し、襲って、捕まえて、最高法院に引かれていきます。彼らに嫌われたら殺される、そいういう人たちに呼び出されました。


"また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、ステパノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。

そして偽りの証人たちを立てて言わせた。「この人は、この聖なる所と律法に逆らうことばを語るのをやめません。"

使徒の働き 6章12~13節


怖いし普通なら耐えられない状況です。でもステパノの顔は輝いていました。


"最高法院で席に着いていた人々が、みなステパノに目を注ぐと、彼の顔は御使いの顔のように見えた。"

使徒の働き 6章15節


どうしてこんなに恐ろしい状況なのに、喜んで輝いているのか?その理由が後でわかります。

ステパノの心の目は、怖い人たちを見ているのではなく、天におられるイエス・キリストの喜びを見ていることが後でわかります。後で彼は石で殺されますが、その時にこう言っています。


55節

じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、

「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。


心の目ではっきりと見ていました。人々は自分を殺そうとしているけど、イエス様が喜んでくださっていることがはっきりわかっていました。まるでイエス様がこの時語ってくださっているかのようです


"わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。"

マタイの福音書 5章11~12節


僕らも怖いことってあります。

心の目が閉じていると、見えるのは、恐ろしい人ばかり、コワイ状況ばかりです。

心の目が開かれると天の神様の喜びが見えるし、感じるし、神様からの希望のことばが聞こえます。


今日のメッセージを通して、僕らがどんな状況でも心の目が開かれ、希望を持って喜んで忍耐することができるようにと願います。


ステパノはよく知っている2人のことを話します。

1人はヨセフ、そしてもう一人はモーセです。

二人とも捨てられたけど、用いられ、神様のご計画とご栄光を現した人です。

ステパノもそうだけど、ヨセフもモーセもそうでした。嫌われ、妬まれ、捨てられました。

それでも用いられました。


●見捨てられたヨセフ


族長たちはヨセフをねたんで、彼をエジプトに売りとばしました。しかし、神は彼とともにおられ、 

あらゆる苦難から彼を救い出し、エジプト王ファラオの前で恵みと知恵を与えられたので、ファラオは彼をエジプトと王の全家を治める高官に任じました。 


使徒の働き 7章9~10節


ヨセフとは、ヤコブの12人の息子の末の子です。ヤコブとはイスラエル人のことです。この十二人の息子たちのことをイスラエルの族長と言います。ヨセフはお父さんに可愛がられていました。それで11人の兄たち、族長たちに妬まれて、殺されそうになって、奴隷にされました。無理やりです。

その日、彼は家族に捨てられました。大好きだったお父さんともお母さんとも引き離され、生活の全部を奪われて奴隷の生活が始まりました。この日は全部を失った日です。

しかし、その日から、神様のご計画がスタートした。


兄弟たちから見捨てられたのに、エジプトでは王様の次の位になります。

何もかも失ったはずなのに、神様は見捨てませんでした。むしろそれを通して大逆転させました。

不幸なことが、神様に用いられることがあります。


神様はもっと大きなご計画があって、売られたヨセフをエジプトの大臣にすることで、そこにイスラエル人たちを呼び寄せ、昔アブラハムに約束した通り、子孫を海の砂のように、空の星のように増やすご計画です。今は75人です。彼らが増えるために神様はエジプトに移住させました。


ヤコブと11人の兄たちは数年後、食糧飢饉に遭います。そして、何も知らずに、エジプトに食料を買いに行きます。そこには総理大臣になったヨセフがいました。


(11-14)

すると、エジプトとカナンの全地に飢饉が起こり、大きな苦難が襲って来たので、私たちの父祖たちは食べ物を手に入れることができなくなりました。 

しかし、ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まず私たちの父祖たちを遣わしました。 (…中略…)

そこで、ヨセフは人を遣わして、自分の父ヤコブと七十五人の親族全員を呼び寄せました。


食料不足のため、引越しするしかなかったことも悲しく辛いことです。でも、そこから祝福が始まりました。エジプトに滞在するうちにイスラエルの人口はどんどん増えます。


食料不足、飢饉、みんな未経験です。阿部先生からは戦時中飢えていた話を聞いています。誰でも嫌なことだしあって欲しくない苦しみです。でも、それで引越しするしかなかったからこそ、手放すしかなかったからこそ、神様のご計画が進みました。


(17-18)

さて、神がアブラハムになされた約束の時が近づくにしたがい、民はエジプトで大いに数が増え、 

ヨセフのことを知らない別の王がエジプトに起こる時まで続きました。 


●捨てられ、拒絶されたモーセ


時代は変わり、ヨセフがいたことを知らない時代になりました。

彼は、エジプトに住んでどんどん人口が増えているイスラエル人たちが気に入らなかったようです。


19 この王は、私たちの同胞に対して策略をめぐらし、私たちの先祖たちを苦しめて幼子を捨てさせ、生かしておけないようにしました。 


また試練が始まります。イスラエルに男の赤ちゃんが生まれた時に、赤ちゃんを捨てなさい、という命令が出た。赤ちゃんを殺しなさい、という命令。


モーセの両親は悩みました。こんなかわいい赤ちゃんを殺せるわけがない。捨てれるはずがない。

でも、王の命令は絶対です。頑張って抵抗して3か月は隠して育てた。でも、もうダメた。

でも、捨てることなんてできない。


20 モーセが生まれたのは、このような時でした。彼は神の目にかなった、かわいい子で、三か月の間、父の家で育てられましたが、 

21 ついに捨てられた…


それで悩んだあげく、カゴを作って、その中に赤ちゃんモーセをいれて、

そして、川のほとりに、置きました。

親は、かわいい赤ちゃんモーセを手放しました。

モーセは捨てられました。でも、神様は見捨てていません。神様が救い、新しいことをなさいます。


21 ついに捨てられたのをファラオの娘が拾い上げ、自分の子として育てました。 

22 モーセは、エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにも行いにも力がありました。 


なんと、エジプトの王の娘、王女がパロの娘がその赤ちゃんモーセを拾い上げました。

かわいい、と思って「私が引き取ります」と言って育てました。


22 モーセは、エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにも行いにも力がありました。 


この時も、もうだめだ、と手放した時に、神様のストーリーが始まりました。

むしろ、当時の最高の教育を受けることになりました。親が諦めた時に神様のストーリーが始まりました。


いつも100%神様の力です。人の力が及ばなくなったとき、大逆転が始まります。モーセは王様の子どもとして、最高の教育を受け、お城で育ちました。


悲しみを通り、絶望を通らされて、何かを手放すことがあります。力を失うことが僕らにもあります。

でも、神様は見放していないです。な


●拒絶されたモーセ


王子様として育てられ、お金もあったし、力もあったし、何でも持っていました。やる気満々でした。その時には用いられなかったようです。彼は自分は実はイスラエル人だちと知っていたので、自分の仲間であるイスラエル人を助けてあげようと思った。


"モーセが四十歳になったとき、自分の同胞であるイスラエルの子らを顧みる思いが、その心に起こりました。(…中略…)

モーセは、自分の手によって神が同胞に救いを与えようとしておられることを、皆が理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。"

使徒の働き 7章23~25節


誰もわかってくれず理解されませんでした。力もあります。お金もあります。彼は、イスラエルを助けるんだ、と思っていました。次の日、喧嘩している人を見つけて、和解させようとします。


26 翌日、モーセは同胞たちが争っているところに現れ、和解させようとして言いました。『あなたがたは兄弟だ。どうして互いに傷つけ合うのか。』 

27 すると、隣人を傷つけていた者が、モーセを押しのけながら言いました。『だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。 

28 昨日エジプト人を殺したように、私も殺すつもりか。』 


自分の力で助けてあげよう、と思ってたけど、イスラエル人たちは拒否しました。

むしろ、王宮で育ったモーセを嫌います。彼を憎み、押しのけます。

モーセはそこにいられなくなり、逃げるしかなくなってしまいました。


29 このことばを聞いたモーセは逃げて、ミディアンの地で寄留者となり、そこで男の子を二人もうけました。 


誰も知らない田舎にいきました。「自分はもう用いられないんだろうな」「もう神様の働きはできないんだろうな」「ここで静かに生活するんだろうな」と思ったと思います。でも、そのように、力を失って傲慢さとか自分のビジョンとかやる気も消えていくときに神様が用いてくださり、また用いられやすい人と変えられます。


35節はこうあります。


"『だれがおまえを、指導者やさばき人として任命したのか』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は、柴の茂みの中で彼に現れた御使いの手によって、指導者また解放者として遣わされたのです。"

使徒の働き 7章35節


モーセが地位もお金も力もあったときには用いられなかったし、神様の時ではありませんでした。でも人から拒絶され、地位もお金も力も失った時に神様のストーリーが始まりました。


ステパノは言います。人から捨てられたヨセフが用いられました。両親が手放すしかなかったモーセが用いられました。人々から拒絶された時 モーセが用いられました。


これらの歴史は全部イエス様の姿を表しています。

神様のあり方を捨てて、人から拒絶され、父なる神からも捨てられ、十字架で殺されたイエス様が復活して、今生きておられます。


●大事なパターン


ここでステパノは大事なパターンを見せています。イスラエル人たちはいつも“神さまが選んだ人を拒絶する”っていうパターンがあったことです。


"あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者が、だれかいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人たちを殺しましたが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。"

使徒の働き 7章52節


つまりステパノが言いたいのは、

「あなたたちイスラエル人は自分たちはイスラエル人だとか、選ばれた民だとか誇っているけど、神様が立てた人を何回も拒絶してきましたよね」ということです。

「そして今回もキリストを殺しましたよね」ということです。


●心と耳から肉を取り除くことの大切さ


ステファノの話が一気に鋭く強くなります。


"うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。"

使徒の働き 7章51節


割礼は、赤ちゃんの生殖器の皮を切り取って、この子は神様の子だ、という印にするものです。神様がその方法を定めました。でも、神様が願ったのは、そういう儀式とか体の印ではなく、

人の心とか、神様の言葉を聞く、心と耳のか割礼をしたかった、自分の考えとか、自分の判断ばかりに注目する、頑固な罪を切り取りたかった、そのイメージです。


割礼とは皮を切り落とすこと。これは「肉を切り落とすこと」

自分の思い通りにしたい、自分が神様のように王様のようになりたい、という罪深い自分のことを肉、と呼びます。肉を切り落とす、とは、自我を捨てる、罪を捨てる、ということです。


新約聖書では「自分に死ぬこと」って言います。


本当の割礼の意味は「肉、つまり自我とか罪とか、そのような自己中な思いを取り除くこと」

みんな思い通りになりたい、栄光を手に入れたい、安全でいたい、と思います。そいういう自分の思いを手放すこと、これが心の割礼です。


ステパノは言います。「あなたがは“肉体の割礼”を受けてるって自慢するけど、心は割礼がない。」信仰者だって威張ってるけど、「いまだに罪の性質が、自分の思いが、自分の心を完全に支配してる」

「外側だけ宗教っぽくして、礼拝して、先生とか言われてるけど、心は神様に開いてない」そのことを「うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。」と責めます。


●殺されるステパノ、その先にある喜びと栄光


"人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしていた。"

使徒の働き 7章54節


預言者たちはみんな拒絶され捨てられました。イエス様も拒絶され捨てられました。そして今度はステパノ自身も拒絶され殺されます。

でも、その先に復活があり栄光があること、そして自分を迎えてくださってることを彼は見ていました。


"しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、

「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。"

使徒の働き 7章55~56節


彼の目線は目の前の怒り狂っている人たちではなく、愛し喜び、迎えてくれるイエス様でした。

そして、彼は石で殺されながら祈ります。石で処刑されながらも彼は聖霊に満ちていて、平安も確信も失われませんでした。


"人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。

そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。

こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」

そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。"

使徒の働き 7章57~60節


人たちの残酷さとか偽りを呪ってません。むしろ祈ってます。しかも、彼らの赦しを求めてます。

「この罪を彼らに負わせないでください」と。

これは彼の働きではないです。彼がすごくいい人、ではなく、ステパノの内側にいるイエス様の聖霊の働きです。


自分を殺してる人たちの赦しを主に願うのは、イエス様ご自身の祈りそのものです。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」イエス様も十字架の上で同じように祈り、自分の霊を神様に委ねました。そのイエス様の御霊がステパノに注がれています。


●適用。


クリスチャンはみんな聖霊が与えられています。受けています。が、みんな

いつも聖霊に満たされているわけではないです。

しつこくまとわりつく罪があります。

罪とか肉と言われているものがあります。罪とは、自分の考え、自分の判断、自分の気持ちを中心にすることです。これが罪です。善悪の知識を、自分で握りしめると神様の言葉が全然入らなくなり、神様の光が見えなくなります。


罪は心の目を閉ざします。

自分の考え自分の願いばかりを見つめていて、天を見上げる目が閉じていきます。

ーーーーーー

※質問です。


あなたが今、一番大きく見えているもの、一番大きく聞こえるのは何でしょうか。


もし天の栄光が見えなくなっているなら(神様の声が聞こえなくなっているなら)その理由はなんでしょう。


あなたが今日手放すべきものはありますか?

ーーーーーーー

だから、イエス様は自分を捨てて私に従いなさい、とおっしゃいます。

神様の言葉、神様の願い、神様のご計画を求めて従ってきなさい、とおっしゃいます。


怖くて、状況が悪すぎて、どうやって祈ったらいいかわからない時。

イエス様は教えてくれます。こう祈りなさい。


「御心が天で行われるように、地でも行われますように。」


神様の願いが、神様の計画が、なりますように。行われますように。と祈りなさい、これがイエス様の教えです。心と耳の肉を罪を自我を捨て去ることです。


自分を捨てて、自分の願いじゃなくて、神様の思いがなりますように、祈りなさい。手放す祈りをするのは不安も付きまといます。それでも神様は良いお方です。見放すことはないし、悪いようにはしません。


だから、自分の考えを捨てて、神さまを求める人はすでに与えられてる聖霊が心も体も満たしていきます。


その人は見えるものでなく、見えないものに目をとめるようになります。


"私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。"

コリント人への手紙 第二 4章18節


見えるものとは、目先の悪い状況。不安な状況です。自分の考え、自分の栄光、手柄。業績。快楽。お金。そして、見えないものとは、永遠に続く祝福や栄光です。


聖書が言う通りです。見えるものにではなく、見えないものに目を止めます。目先の怖い人たち、悪い状況ではなく、人がどう思うかではなく、どう思われるかでなく、見えない神様に喜ばれていることがわかるようになります。

その人の顔は輝きます。   


"からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、

目が悪ければ全身が暗くなります。"

マタイの福音書 6章22~23節


心の目がどこを向いているかで全身が変わるみたいです。

心の目が開かれてると全身が明るいとイエス様はおっしゃいます。

全身が明るいと、文字通り顔色が良くなります。体の動きにも関係するようです。そう聖書に書いてあります。


"喜んでいる心は、顔色を良くする。心の痛みの中には、打ちひしがれた霊がある。"

箴言 15章13節


"喜んでいる心は健康を良くし、打ちひしがれた霊は骨を枯らす。"

箴言 17章22節


神様を見上げ、神様に愛されていること、この苦しみの先に栄光があること、神様に喜ばれていることがわかる人、全身が喜びます。


どんな試練があっても、殺されることがあっても、捨てられることがあっても、神様は一緒にいてくださいます


捨てられても、神様は共におられ、救出し新しいことをされます。

ステパノは殺されたけど、天ではイエス様に受け入れられ、喜ばれています。

そして、地上では、この迫害、殉教によってますます福音が広がっていきました。


みなさんがどんな状況でも心の目が開かれ、希望を持って喜んで忍耐することができるようにと願います。


心の目がはっきり見えるのようなって、天で受け継ぐものが、その栄光がどんなに大きなものか見上げて、忍耐し、赦し、手放し、委ねていけますように。手放すべきものはなんでしょう。捨てすべきものはなんでしょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿