2025年4月4日金曜日

ルカ19.41-44

 ルカ19.41-44


なぜこんな悲惨な戦争があるのか、なぜイスラエルは好戦的なのか?悲惨なこの状況から人類は抜け出せるのか?とよく言われます。全部はわからないけど、聖書はハッキリと平和が来る日を預言しています。その日はイエス様がこの世界の王様であることをみんなが知り、認め、お迎えする日です。

王であるイエス様は全ての戦争は終わらせることが書かれています。

そしてそれは、イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入場されたこととすごく関係があります。



"娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。

わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。"

ゼカリヤ書 9章9~10節



避難している人を助けたり、そもそも戦争反対の意思表示をするのはすごく大事だけど、もっと根っこから癒され平和になるのはイエス様が王様であることを人々に伝え、人が自分の高ぶりを知り、悔い改めてイエス様を自分の王様としてお迎えすることです。イエス様は「悔い改めなさい。天の御国(王国)が近づいたから。」とおっしゃっています。(マタイ4.17)


イエス様はこの聖書の預言の通りに平和をもたらすためにエルサレムに王様として入場されました。しかも、預言の通りにロバに乗って入場します。でも、その時はエルサレムは拒絶しました。イエス様を王としてお迎えしない結果は悲惨です。イエス様はそれを知って悲しみ、泣いておられます。

今もその渦中にあると思います。イエス様が自分を拒否するエルサレムを見て、悲しんで泣いておられます。



"エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。

「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。

やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、

そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」"

ルカの福音書 19章41~44節



なぜこんな悲惨な戦争があるのか?よく言われることですが、イエス様はその悲惨な状況を知り、泣きながら答えます。「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。」(41)「神の訪れの時をお前が知らなかったからだ.」(44)人々がイエス様を認めず、その結果、エルサレムはAD70年に滅ぼされました。


イエス様が王様です。この方は平和の王です。伝えましょう。平和はイエス様によって実現します。

平和は来ます。「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」(イザヤ2.4)ハレルヤ!




2025年4月3日木曜日

むなしいささげ物を携えて来るな イザヤ1.13 リバーワーシップスクール卒業式の祝辞

リバーワーシップスクールの名前、本当にいいな、って思います。内側から溢れ出る命の川、御霊による感謝と喜びと平安によって与えられている礼拝、賛美を目指すこのスクールで教えることができて本当に感謝しています。

やっぱり教えてて楽しいです。まずは僕自身がシンセサイザー好きなんだな、と改めて思います。自分が楽しいので伝えたい、って気持ちがあります。

シンセサイザーはいろんな音が出て楽しいです。オーケストラ風の音を出したり、最近買ったのはボーカルシンセサイザーです。かなり人間が歌ってるっぽく作れます。そういう豪華な音とか、新しい音、僕は好きだしこの賜物を預けてくださって感謝って思いますけど、同時に神様を忘れさせる大きな誘惑でもあるといつも思います。

最近問われているなあって思います。単に気持ちよく、いい思いするための音楽をしてるのか、逆に自分の好みとか楽しみではなく、御霊によって感謝し賛美し、主の栄光に触れて、その前に平伏してしまうような音を出そうとしてるのか?

問われているし、立派な音を出すほどに、その責任が問われるような気がします。



"イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」

すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」"

マルコの福音書 13章1~2節


イエス様は素晴らしい神殿、素晴らしい石に全く興味関心がなかったです。

イエス様はそこが中心ではないようです。特に礼拝や祈りにおいては人に見せるためであってはならない、と厳しくおっしゃいます。(マタイ6.5)見せるために祈ったり何かをしたりする人を偽善者ども、と叱る方です。


「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。"

マルコの福音書 7章6節



「もう、むなしいささげ物を携えて来るな。」というイザヤ書の「むなしい」という言葉は十戒の「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」(出エジプト20.7)の「みだりに」と同じです。


"もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の召集──わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない。"

イザヤ書 1章13節


豪華な音を出しても、もしそれが中身のないものなら、天ではむしろ嫌われるものです。

神様の前にへりくだり、そのご臨在の前に圧倒され、跪くものでなければ、平伏して、自分を捨てて、自分の冠を捨てて捧げるものでなければ、それは虚しいものです。神様はその歌を聞きたくない、とさえおっしゃいます。


"あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。あなたがたの琴の音を、わたしは聞きたくない。"

アモス書 5章23節


生きておられる主の栄光のご臨在の表れでなければ、聖なる主を表すものでなければ、単なる歌の騒ぎです。わたしは聞きたくない、と神様がおっしゃいます。


新しい技術が与えられるたびに問われます。それは何に使うのか、と。自分の虚栄心のためか、それともへりくだって主の栄光のために、自分を捨てて賛美するためか。

多く預かった人は多く求められます。このリバーを卒業した人は、ますます献身が求められます。ますます自分を捨ててへり下り、主の栄光だけを求めることが求められます。


もう一回悔い改めましょう。高ぶりを認めましょう。もう一度自分を捨てましょう。自分を捨てた時に残るのは主の栄光、主のご臨在です。自分を捨て明け渡した時に、圧倒的な天からの喜び、栄光、主権が表されます。

主の栄光だけが表されますように。

ルカ19.37-40

ルカ19.37-40


僕らが神様を賛美しなくても、神様の素晴らしさには変わりありません。僕らが何も言わなくても、自然も宇宙も神様の素晴らしさを表しています。花や木々の美しさも、星の美しさも空の青さも雪の白さも主を讃えています。


でも、神様は僕らに特別に言葉を与え、口を与え、声を与えてくれました。この口は神様をほめたたえるための口です。与えられた声を使って神様をほめたたえるのは人間にとって最もふさわしい役目です。イエス様はもし人が黙れば石が賛美して叫ぶとおっしゃいました。



"「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」"

ルカの福音書 19章40節



普通は石がしゃべることはないけど、神様なら石に賛美させることもできます。…が、やっぱり人間にはすでに賛美する口と声が与えられています。掃除機で料理を作るのはおかしいし、エアコンで電話するのも変です。同じように、僕らが沈黙して石が叫んで賛美するのは変です。僕らの声を使って賛美するのが一番ふさわしいし、そのために与えられてる声です。聖書は何度も僕らに主を賛美せよ、と繰り返しています。イエス様がエルサレムに来られた時、人々は叫んで賛美しました。



"イエスがいよいよオリーブ山の下りにさしかかると、大勢の弟子たちはみな、自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で神を賛美し始めて、

こう言った。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」"

ルカの福音書 19章37~38節



イエス様だけが賛美を受けるべき世界の王様でであり、ほめたたえられべきお方です。

賛美しなくても神様の素晴らしさは変わらないけど、僕らが賛美することで神様の栄光ははっきりと現れます。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』(マタイ21.16)とある通り、神様の栄光や力は人間が賛美することで表されます。


僕らが黙れば石が叫び出します。せっかく賛美が与えられているのに、石ころに譲る必要ありません。「あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。」です。(黙示録4.11)今日も賛美しましょう。イエス様は素晴らしいお方です。この口は神様を賛美するためのものです。ハレルヤ!

2025年4月2日水曜日

ルカ19.11-27

 ルカ19.11-27


当たり前だけど、僕らは相手のことをどう思っているかで態度が変わります。相手を喜んでいる人は、相手に喜ばれることをしたがります。逆に嫌いな相手なら関わること自体が負担です。その人から何かお願いされたとしてもやる気が出ません。大好きな相手なら喜び、動きは軽やかです。


そのように、神様のことをどう思ってるかで人は変わります。神様を喜んでいる人は神様から何かを任されると喜び、張り切ります。神様をどう思っているかでその人のやる気や動きは変わります


イエス様は僕らを愛し、期待し、賜物を預けておられます。そしてイエス様の願いは僕らもイエス様を愛し喜んで、預けられたものを忠実に使うことです。イエス様はこれをたとえ話で教えてくださいました。



(12~13節)

イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。

彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。



この主人を愛し、喜ぶしもべは任されたことを喜び、商売をしてさらに儲けます。主人のお金が増えたことは自分の喜びです。



(16~19節)

最初のしもべが進み出て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで十ミナをもうけました。』

主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』

二番目のしもべが来て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで五ミナをもうけました。』

主人は彼にも言った。『おまえも五つの町を治めなさい。』"



ところが、主人を誤解して嫌っているしもべがいました。彼はお金を任されたことを喜べず、関わりたくないと思いました。主人は奪い、取り立てる怖い人、私を不幸にする人、悪い人だと思ったからです。ただこの任務から抜けられることだけを願ったようです。彼は主人のお金はなるべく触らず、布に包んでしまっておきました。



(20-21節)

また別のしもべが来て言った。『ご主人様、ご覧ください。あなた様の一ミナがございます。私は布に包んで、しまっておきました。

あなた様は預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しい方ですから、怖かったのです。』



この話はイエス様と僕らの関係を教えています。イエス様は僕らを愛し、喜んで、期待して賜物を任せてくれています。もし失敗したとしても愛されていることに何の変わりもありません。それがわかる人は安心して能力を発揮します。イエス様は愛に満ちた方です。僕らを信頼して任せてくださっています。


怖いから何もしないか、それとも喜んで忠実に従うかどうかは、イエス様に対して安心しているかどうかがポイントです。成長する人、力を発揮する人はイエス様から愛され信頼されてることを知っている人です。


イエス様はパワハラ上司とは違います。無理な要求ばかりする横暴な王様ではありません。この王様がしもべに1ミナ預けたのはしもべを喜び期待しているからです。そして、同じようにイエス様が僕らに賜物を預けているのは、信頼し期待し喜んでいるからです。


イエス様だけでやった方が間違わないし、効率がいいです。でも、イエス様は違います。未熟な弟子たちに福音を委ねます。傷ついたり歪んだりしている凸凹な人たちの教会に賜物を預け、福音を預けておられます。それは愛してるし、受け入れてるし、喜び期待しているからです。



この話はたとえ話だけどリアルです。イエス様はリアルに地上の王として帰ってきます。「ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。」(12)とあるように、イエス様は王様としてこの地上に帰ってきます。


この王様が『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』とおっしゃったのもリアルです。

僕らクリスチャンはイエス様と一緒に地上を支配する人になります。イエス様は弟子たちに「わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなたがたに王権を委ねます。」(ルカ22.29)とおっしゃいました。意外と知られていませんが、クリスチャンがキリストと一緒に支配者になることが聖書に多く書かれています。(2テモテ2.12、黙示録5.9-10、20.6など)



イエス様が僕らに願っていることは、イエス様からの愛と信頼に喜んで応えることです。不信感がある人は従いません。そしてイエス様を喜び、安心して挑戦する人にはもっと多くを預けてくださいます。



(24~26節)

そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナをこの者から取り上げて、十ミナ持っている者に与えなさい。』

すると彼らは、『ご主人様、あの人はすでに十ミナ持っています』と言った。

彼は言った。『おまえたちに言うが、だれでも持っている者はさらに与えられ、持っていない者からは、持っている物までも取り上げられるのだ。



イエス様のことをどう思ってるかで人は変わります。イエス様を喜んでいる人は何かを任されると喜び、張り切ります。誤解している人は恐れと悲しみと重荷だけです。イエス様をどう思っているかで僕らのやる気も動きも変わります。

イエス様の願いは僕らもイエス様を喜び、預かっているものを使うことです。今日も小さな一つ一つのことをイエス様のためにやりましょう。思ってる以上に喜ばれ、期待されています。ハレルヤ!

ナイトdeライト ストップモーション


 キーボードで一緒にレコーディングさせてもらって光栄です。レコーディングも感謝なんだけど、毎回、彼らと一緒に作業するたびに彼らの仲の良さというか、欠点がありながらも互いに受け入れあってる親友同士というか、家族というか、そういう関係を目の当たりにして嬉しくなります。なんと今回のアルバムのジャケットはヒロの手書き!


https://www.nightdelight.shop/items/101857535


2025年4月1日火曜日

ルカ19.1-10

 ルカ19.1-10


神様が一緒にいてくれる世界は何も不足がなく、平安と喜びと愛に満ちた世界です。全てに満足できるので、モノやお金や他人で満たされようとする必要はありません。能力や業績で頑張る必要もありません。


でも、多くの人は神様から離れているのが現状です。イエス様はそんな人のことを「(神様から)失われた人」と言います。(ルカ19.10)安心を失い、お金で安心しようとするしかなくなります。でもイエス様はそのような「失われた者を捜して救うために来た」とおっしゃいます。(10)


ザアカイもお金を求めることで必死でした。満足しようとして取税人のリーダーにまで上り詰めました。がんばる理由は飢え渇いているから、不安だからです。

そんなザアカイはイエス様に興味を持ちます。イエス様は貧しい罪人を愛し、病人を癒し、愛し交わり、彼らを回復させていたからです。そんなイエス様を見たいと思って桑の木に登るほどです。



"それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。

するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。

彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。

それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。"

ルカの福音書 19章1~4節



イエス様はザアカイの心が飢え渇き、必死にお金にすがっていることを知っていました。ザアカイの近くに来ると、名前を呼んで声をかけてくれました。



"イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」

ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

ルカの福音書 19章5~6節



ザアカイは喜んでイエス様を受け入れます。今まで名前を呼んでくれた人、泊まりたいと言ってくれる人などいなかったかもしれません。イエス様の側から来てくれました。それだけでもう十分です。嬉しくて、安心して、お金に執着する必要がなくなります。



"しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」

イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」"

ルカの福音書 19章8~10節



お金に執着する人は、「自分の力でなんとかしなきゃ!」と思い込む人です。イエス様は「空の鳥を見なさい、野の花を見なさい」とおっしゃいます。(マタイ6.25-34)神様がちゃんと養ってくださるから、心配しなくていいよ、っておっしゃっています。



"金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。"

ヘブル人への手紙 13章5節



ザアカイはイエス様が来てくれただけで十分でした。だから、彼は「私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」と言い、被害を与えた人に謝り、弁償し、財産を手放し与える決心をしました。これは「もうお金にしがみつかなくてもいい。神様がいてくださるから大丈夫!」という安心感の現れです。


イエス様は「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」とおっしゃいます。「アブラハムの子」とは、「祝福の子」です。神様に愛され喜ばれる子です。今日も神様は僕らを愛し喜んでくださっています。僕らにも「決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と今日も言ってくださっています。(ヘブル13.5)イエス様と一緒なら何も不足はありません。安心しましょう。感謝しましょう。大丈夫です。ハレルヤ!