2022年12月13日火曜日

エゼキエル11章

エゼキエル11章 思い通りにならないことが起こるのは、神様の恵みです。僕らはいつも自分が王様になりたがり、神様のようになりたがり、ガンコになりがちだからです。神様は今も僕らがへりくだり、罪に気がつくために苦しみや喪失を通して教えてくださることがあります。 イスラエルは神様からの懲らしめを受けてもなおガンコで、神様を無視して偶像を拝み続けていました。神様はそんな彼らを強制的に滅ぼします。彼らの計画は崩れ、全てを失っていきました。そのような悲惨な経験を通して神様は彼らをきよめ、神様だけを礼拝し従う新しい心を与えます。神様は残された人たちをもう一度イスラエルに集め、彼らはその時には忌み嫌うべき偶像礼拝をやめます。その体験を通して神様の霊が与えられ、彼らは作り変えられます。 (17-21) それゆえ言え。『神である主はこう言われる。わたしはあなたがたを諸国の民の中から集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを呼び寄せ、あなたがたにイスラエルの地を与える。』彼らがそこに来るとき、すべての忌まわしいもの、すべての忌み嫌うべきものをそこから取り除く。わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。こうして、彼らはわたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行う。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。しかし、忌むべきもの、忌み嫌うべきものの心を、自分の心として歩む者には、その行いを頭上に返す──神である主のことば。」 石のようにガンコな僕らの心は砕かれなければなりません。そのためには強制何かを失う経験も通されます。神様はただ苦しめようとは思っておられず、その先に新しい心、新しい霊で満たそうと願っておられます。心が貧しくされる人は幸いだとイエス様は言われます。神様こそが王様だと知るからです。(マタイ5.3)苦しみを通ることは僕らが罪を示され、偶像を手放し、新しくされる通過点です。聖書は愛するゆえに懲らしめることが何度も書かれています。 (箴言20:30) 打って傷つけるのは悪を洗い落とすため。腹の底まで打ちたたけ。 (箴言13:24) むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。 (ヘブル12:11 ) すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。 今の苦しみによって与えられている神様からのメッセージを受け取りましょう。他人の目のちりが気になるなら自分にはもっと大きな梁(罪)があります。(マタイ7.4-5)罪、高ぶり、偶像をとり除きましょう。イエス様を信じる人には新しい霊が与えられています。同時に、聖霊に満たされて完全なものとされるプロセスはまだまだ続きます。思い通りにならないことは神様の恵みです。神様はまず僕らを王様の座から降ろしてくださいます。自分を捨てましょう。聖霊に自分を委ねましょう。苦しみはイヤだけど、聖霊に委ねて変えられるための通過点です。 (ヤコブ1:2-4 ) 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。(…中略…)あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

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