2022年12月13日火曜日

エゼキエル18.1-18

親が犯した罪によって子どもが苦しむ、と僕らは思います。イスラエルでも繰り返しそう言われていたようです。ところが、神様はそれを否定します。それは親のせいではなく、自分の罪です。罪とは神様から離れることです。その責任は自分にある、と聖書は言います。 (1-3) 次のような主のことばが私にあった。「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』という、このことわざを繰り返し言っているが、いったいどういうことか。わたしは生きている──神である主のことば──。あなたがたがイスラエルでこのことわざを用いることは、もう決してない。 僕らは神様によって造られました。本来、神様に似た良い人として、神様の命と繋がり、神様と交わりながら良い行いをする人として造られました。 (4) 見よ、すべてのたましいは、わたしのもの。父のたましいも子のたましいも、わたしのもの。罪を犯したたましいが死ぬ。 苦しんで死んでいく人は神様と切れてしまった人です。罪とは神様から離れて悪魔と繋がることです。本来、神様の子どもであり神様と繋がっている人は良いことをしようとします。神様の命がその人の中に流れているからです。 (5-9) 人が正しい者であるなら、公正と義を行う。丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、月のさわりのある女に近寄らず、だれも虐げず、質物を返し、物をかすめ取らず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に衣服を着せ、利息をつけて貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を正しくさばき、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守って真実を行う。このような人が正しい人であり、この人は必ず生きる──神である主のことば。 このことは新約聖書でも繰り返されています。神様から生まれた神様の子どもは神様に似て良いことをしようとします。逆に、神様から切れてしまった人は悪魔の奴隷になってしまいます。 (1ヨハネ 3:9-10) だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。 罪の責任は親ではなく本人にあると聖書は繰り返します。 (11-13) すなわち、それらすべてのことをしようともせず、かえって丘の上で食事をし、隣人の妻を汚し、12,乏しい人や貧しい人を虐げ、物をかすめ取り、質物を返さず、偶像を仰ぎ見、忌み嫌うべきことをし、利息をつけて貸し、高利を取ったなら、こういう者ははたして生きるだろうか。彼は生きられない。これらすべての忌み嫌うべきことをしたのだから、必ず死ぬ。その血の責任は彼自身にある。 教会の中でしばしば「つまずいた」と言って神様から離れたことを他人のせいにしがちです。でも、聖書は「責任は彼自身にある。」と言います。(13)それでも神様は僕らが死なないように、悔い改めて生きるように願っておられます。イエス様がいのちです。死とはイエス様から離れてしまうことです。イエス様から離れた人はコンセントから抜けた家電のようです。なんの役にも立たず廃棄されるのみです。神様は今日も神様の元に帰ってくるのを待っておられます。 (23) わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──神である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。 責任は自分にあります。人のせいではありません。今日、神様と繋がって素晴らしい命の中を歩めますように。全ての人が悔い改めてイエス様に繋がりますように。

0 件のコメント:

コメントを投稿