光が入って来たり、カーテンが空いたり、窓が空いたりすることを喜ぶ人もいますが、逆に「やめて!」という人もいます。光が入ると色々見えてしまって恥ずかしいし、できればそのままで隠れていたいからです。イエス様がこの世に生まれたのは、闇の中に光が来たようです。イエス様は真実を暴きます。イエス様のことばは罪は罪、不正は不正だとハッキリ認めさせます。だから、イエス様が地上に来られると反対したり、嫌ったり避けたりする人とそうでない人に分かれます。
赤ちゃんイエス様を連れて両親が神殿でささげものをしに来た時、そこにいたシメオンという老人は聖霊に満たされて言いました。
(34-35節)
シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」
イエス様は大人になって人々から反対を受け、殺されます。光を嫌うように罪人はイエス様を嫌います。イエス様によって「多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」それでも、イエス様がこの地上に来られたのはそのように闇の中を好む罪人を救うためです。
(28-32)
シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」
イエス様は「万民の前に備えられた救い」です。イスラエル人だけでなく僕ら日本人にも備えられた救いです。イエス様は「異邦人を照らす啓示の光」です。啓示とは今まで良くわからなかったことがハッキリわかる、ということです。しかも、それは「光」です。イエス様は闇の中にいる罪人をそのまま愛し、罪を赦してくださる光です。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1.21)このことがわかる人はイエス様のところに来ます。逆に罪の赦しがわからないと、怖くて光の近くにはいけません。
イエス様の赦しを信じる人は光を受け、力を受けます。でも、罪の赦しがわからない人は怖くて光の近くにはいかないし、激しく反対したり逃げたりします。だから、シメオンは言いました。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。」
イエス様という光がくると、多くの人たちの心の中の醜さ、汚さが照らされます。「それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」(35)光に照らされて自分の汚さがわかることを恐れるか、それとも照らされた罪が全部赦されるという恵みに感謝するかの二択です。イエス様は全ての人を赦し受け入れようとされる神様からの光です。自分の醜さがわかる人は幸いです。イエス様はそんな罪人を見捨てないからです。「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」と聖書は言います。(マタイ 4:16 )
全ての人を照らす光がきました。恐れず、逃げず、イエス様の所に行きましょう。イエス様はさばくために来たのではなく、救うために来てくださいました。イエス様こそ救い主です。感謝しましょう。ハレルヤ!
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