神様はダビデを祝福し、ダビデの子孫であるイエス様を祝福し、またイエス様を信じる僕らを祝福しておられます。それは絶対に実現する恵みであり真実です。「わたし(神様)の恵みを彼のために永遠に保つ。わたしの契約は彼にとって確かなものである。」と言ってくださいます。(28)
ところが、ダビデの子孫たちもイエス様も、まるで神様から見捨てられたかのように全てを失ったことがありました。敵が勝ち誇り、喜び、恥だけに覆われたことがあります。それでもよく読むと、それもまた神様のご支配の中での出来事です。
(38-42)
しかしあなた(神様)は拒んでお捨てになりました。あなたは激しく怒っておられます。あなたに油注がれた者に向かって。あなたはあなたのしもべとの契約を廃棄し彼の王冠を地に捨てて汚しておられます。(…中略…),道行く者はみな彼から奪い取り彼は隣人のそしりの的となっています。あなた(神様)は彼の仇の右手を高く上げ彼の敵をみな喜ばせておられます。
イエス様はまさに人々から罵らせ、全ての尊厳を奪われて殺されてました。そして、敵はあざけって言いました。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」(マルコ15:32)イエス様は嘲られました。それでも神様の恵みはイエス様から離れたのではありません。イエス様は復活して全ての栄光と権威を持っておられます。
そして今もイスラエルは嘲られ、クリスチャンたちも嘲られます。イエス様はもう一度地上に来られて全てを支配なさると聖書にありますが、嘲る人たちは「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」とバカにします。(2ペテロ3.4)彼らは油注がれた者(キリスト)を悪く言います。
(50-51)
主よみこころに留めてください。あなたのしもべたちの受ける恥辱を。私が多くの国々の民をすべてこの胸にこらえていることを。
主よあなたの敵どもはそしりました。あなたに油注がれた者の足跡をそしったのです。
聖書はそれでも神様の言葉は変わることなく実現する、と言います。一定期間まるで神様に見放されたように感じることがあるかもしれません。それでも神様の恵みは変わることなる実現します。全てが神様の許可の中です。だから「いつまでですか。主よ。あなたがどこまでも身を隠されあなたの憤りが火のように燃えるのは。」と神様に求めることができます。(46)僕らも辛く暗い時期を通らされることもあります。それでも神様の御手の中です。だからと言って見捨てられたのではありません。神様の約束は絶対に変わらない、と聖書は言います。
(33-34)
しかしわたしは彼から恵みをもぎ取らずわたしの真実を偽らない。
わたしはわたしの契約を汚さない。唇から出たことをわたしは変えない。
イエス様は全ての権威と栄光を持っておられる方なのに、全てを剥奪されて殺されました。しかし、イエス様は復活して今も全ての権威と栄光を持っておられます。「わたし(神様)の恵みを彼のために永遠に保つ。わたしの契約は彼にとって確かなものである。」と言ってくださいます。(28)僕らも辛く暗い道は通らされることがあります。それでも大丈夫です。見捨てられたのではありません。敵が喜び、敵が勝ち誇ることがあっても神様のご計画の一部です。神様の恵みは試練を通して実現することが多いようです。試練は僕らの信仰を成長させます。試練を通らないとわからないことはたくさんあるようです
(ヤコブ1:2-4)
私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。
神様に見捨てられることはありません。
今日も僕らに与えられる全ての苦しみや悲しみが用いられ、ますます神様との関係を親しくさせていただけますように。
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