罪のある人間は、聖なる神様と交わることができません。イエス様が来られるまでは、唯一、神様と交わることのできる「会見の幕屋」と呼ばれるテントがあり、後にそれがエルサレムの神殿となりました。その幕屋の一番奥に至聖所と呼ばれる場所があり、そこは大祭司が年に一回だけ入ることが許可されました。その時には動物の犠牲の血を携えて、です。勝手にその場所に入るなら人は死んでしまいます。聖なる神様の前に、汚れた人間が近づくことはできません。
ところが、イエス様が十字架で犠牲になってくださってからは、その血(犠牲の命)によって、僕らは大胆に神様に近づくことができるようになった、と言います。
(19節)
兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
それまでの神殿には神様の聖所と外を仕切るための分厚い垂れ幕がありました。人間が勝手に近づいて死なないための垂れ幕です。イエス様が十字架で処刑された時に、その分厚い垂れ幕が「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」(マタイ27.51)と書かれています。イエス様の処刑は僕らが聖なる神様と交わるための道を開いてくださいました。
(20節)
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。
僕らはイエス様によってきよめられました。
今はまだ心も行いも不完全だけど、もう、近づいても殺されることはありません。むしろ、「大胆に」「神に近づこう」と書かれています。「こんな自分じゃダメだろう…」と動揺しなくても大丈夫です。「動揺しないで」と聖書は言います。「きよめた」と宣言してくださっている神様は真実です。僕らはその約束を信頼するだけです。
(22-23節)
心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。
神様に近づくことは、信じる人が一緒に集まることです。イエス様は「二人でも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)と約束されました。僕らは一人で生きるように作られていません。一緒に集まって助け合って生きるように作られています。イエス様が僕らを励ましてくださる方法は一人一人が個人でバラバラに教えられるのではありません。なんと、教会の交わりの中で、神様が互いの口を、互いの手足を神様の手足として用いて教えて励まし合うように、と定められました。しかも、教会は「キリストの体」「一人一人は互いに器官」だと聖書は言います。(1コリント12.27)神様からの励ましや教えは教会の交わりの中で与えられます。
(24-25節)
また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。
「かの日」とはキリストの裁きの日です。その時まで僕らがこの信仰を保ち続けるように、そして、信じるだけでなく愛と善行を実行するように励まされる必要があります。教会の交わりは神様からの保護と愛と助けを現す交わりです。愛するだけでなく、愛されること、励ますだけでなく、自分も励まされることが必要です。教会の交わりこそリアルに神様の愛と善行を現すものです。僕らには必要です。仲間が必要です。互いに関心を持ち、守り、助け合う交わりこそが教会です。ハレルヤ!
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