ローマ人への手紙を書いたパウロはひどい悪人でした。教会を嫌い、キリストを嫌い、クリスチャンたちを拷問にかけて来た人です。彼は
神に呪われて当然の壊れた器のような人です。なのに、壊されなかったし、呪われなかったし、赦されたというのが「恵み」です。
パウロは上から目線でああしなさい、こうしなさい、と言わず、「自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。」と言います。ひどい自分だったし人に教える資格なんてないのに、ただ、「与えられた恵み」によって、クリスチャンたちに教えています。
● 思い上がってはいけません。
(ローマ12:3)
私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
「思い上がってはいけません」と聖書は言います。僕らも、パウロと同じように捨てられて当然だったのに、神様に恵んでいただいた身です。イエス様が十字架の上で身代わりに呪われて、殺されたあの姿を思い出すときに、そして自分の過去の罪を思い出す時に、他人を裁くことはできないし、高ぶることもできなくなります。
「信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」と聖書は言います。
信仰の量りとは、大きいとか小さいとかいうのではなく、信じていることに従って、という意味です。聖書は信じる内容を1章から11章で説明して来ました。それは、3①あなたは義(無罪)とされたこと。②あなたは変えられている途中であること、③将来は栄光が与えられることです。そう信じているので、威張らないで慎み深くしなさい、と聖書は教えます。この内容を信じるなら、思い上がることはできないし、ちょうど良く、慎み深い考えが与えられます。
謙遜の器の代表だった、あのソロモンでさえ、知恵も富も宝も力も全部が神様からのプレゼントだと知って感謝していたのに、年数がたつと慣れて来て、多くの女性を手に入れるようになり、堕落して行きます。高ぶりとは神様の恵みを忘れることです。3節の「思うべき限度を超える」とは、神様がよくしてくださったことや、神様が自分を捨てないで憐れんでくださったことを忘れることです。
僕らが上から目線になって他人を裁いてる時は、必ずイエス様の血だらけの十字架のめぐみを忘れている時です。
だから2節に「心を新たにすることで日々変えていただきなさい」とあります。これは日々、僕らに必要なことです。
聖書の言葉は命そのもの、食事そのものです。そして、祈りは生きて行くのに必要な呼吸のようです。
●キリストにつながることは教会に仕えることです。
(4-5節)
一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
教会はキリストのからだです。仲間たちはキリストの器官のようです。イエス様を愛し仕えるのは、教会を愛し仕えることです。
教会に所属しないクリスチャンというのはあり得なません。もちろん教会といってもいろんなタイプがあります。中国のように家の教会。東栄のように看板を出している教会などなどありますが、教会は組織とか建物ではなく、クリスチャン同士が互いにつかえ合うコミュニティーです。キリストを信じ仕えることは、クリスチャンの交わりに仕えることと一つです。キリストにつがなることは教会につながることと一つです。
みんな、キリストの一つの器官です。しかも、聖書は「互いに器官」と言います。
体の仕組みと同じように、全ての器官が互いのために必要です。どんな人も互いのために存在し、受けるだけではなく、互いのために自分の役目を果たす器官です。高ぶると、与えるより受けることばかり考えて、この教会は私のためにああしてくれないこうしてくれない、と思います。だから、僕らは聖書は日々新たに変えられなさい、体をささげなさい、と言います。
イエス様は「わたしは罪人を招く」とおっしゃいました。だから教会は罪人の群れです。愛しずらい、難しい変な人の集まりなのは当然です。イエス様はそんな罪人を招いて教会にしてくださいました。そして、そんな僕らを「器官」だと言ってくださいます。
一つの器官では生きられません。手や足が立派ででも、切り離して独立しては生きていけません。
キリストに捧げることは、兄弟姉妹に捧げることです。キリストを愛することは、兄弟姉妹を、難しい教会の人たちを愛することです。教会なしのクリスチャン生活はありえません。
●賜物は他人を生かす神様のものです
キリストの器官にはその役割のために必要な賜物が与えられています。僕らは賜物がないとか、こんな奉仕は自分には無理、と思いますが、それをするのはキリストご自身です。マザーテレサは言いました。「私たちは神様の鉛筆です。ただ、自分をささげ神様に用いて頂くだけです。文字を書いてくださるとのは神様です。」
僕らは用いられる器官です。キリストに繋がった器官が、キリストから力をいただいて、させてもらうだけです。自分にこれができるだろうか、というのは人間中心です。自分ではできませんが、キリストに力があり、権威があります。
(6-8節)
私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
神様は一人一人に違う賜物をくださいました。6節でも「めぐみによって」と繰り返します。努力とか、勝ち得たのではなく、賜物とはプレゼントです。
預かった賜物は他の人を生かすために分かち合うものです。自分のためだけに使い込み、他の人に使わない溜め込んだ力も賜物も他の人を弱くし、自分を高慢にさせます。力は他の人を生かすために与えるものです。賜物は、神様のものであり、神様からの預かりものです。管理するように、と神様から一時預かってるものです。
●まとめ 教会を建て上げることとは
教会は一人一人がそれぞれ預かっている賜物を兄弟姉妹のために与え、神様に捧げるものです。教会はキリストの体であり、教会を建て上げることはキリストの願いです。全ての土台は神様の福音の恵み、あわれみです。牧師だけが頑張るのでなく、執事だけが頑張るのではなく、全員がそれぞれが役目を果たせるようにするのが聖書が教える教会の成長です。
(エペソ4:11-12)
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
牧師の働きは、自分が頑張るのでなく、みんなが器官として捧げていけるように整えることです。
みんなが体の器官として主に仕え、互いに仕えることができるようにと願います。それが神様の願いです。
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