みんなに聞いてもらえるメッセージをするのなら楽しいのですが、相手の罪を指摘し、神の怒りと裁きを伝えるのは誰もやりたくないことです。伝えたところで相手を不愉快にし、批判され、嫌われるだけです。エレミヤの時代は偶像礼拝に堕ちていく時代でした。そのような時代に神様に選ばれたのが預言者エレミヤです。エレミヤはメッセージを語り、数々の迫害に遭います。人々の反応はみな恐ろしいものでした。エホヤキムと言う王様はエレミヤのメッセージの巻物を全部小刀で切り裂いて燃やしてしまい、エレミヤを逮捕しようとします。(エレミヤ36.23-26)
誰でも傷つきたくないし、反撃を受けるのに伝えようとは思いません。それでも、神様はエレミヤに言われます。「わたし(神様)があなたに命じるすべてのことを語れ」と。(7)しかも、自分が行きたいところではなく、「わたし(神様)があなたを遣わすすべてのところへ」行くように言われます。
(4-8)
次のような主のことばが私にあった。
「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」
私は言った。「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」
主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。
彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──主のことば。」
エレミヤはイヤだと思ったようです。彼は「私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」と言います。断る理由はいくらでもあります。やりたいことをしたいのが人間です。危険を避けたいのは当然です。それでも神様は「わたしがあなたを遣わすすべてのところへ」行くように言われます。召された人に任務地は選べません。「まだ若い、と言うな」「彼らの顔を恐れるな」ともおっしゃいます。神様がエレミヤに語ることばを与え、力を与え、守りも与えてくださいます。全てが神様からのものです。神様はエレミヤの口に触れてことばを与えてくださいました。
(8-9)
彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──主のことば。」
そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。
これから語る内容は神の裁きでした。伝えれば反感を買う内容です。それでも神様はエレミヤを守るし、敵はあなたに勝てない、と宣言してくださいます。しかも、もしエレミヤがこの任務を断るなら「あなたを彼らの顔の前でおびえさせる。」とも言われます。
(16-19)
わたしは、この地の全住民の悪に対してことごとくさばきを下す。彼らがわたしを捨てて、ほかの神々に犠牲を供え、自分の手で造った物を拝んだからだ。さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしがあなたを彼らの顔の前でおびえさせる。
見よ。わたしは今日、あなたを全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。
彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、──主のことば──あなたを救い出すからだ。」
神様の選びと召しには抵抗できません。あとで、「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私のうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」と告白しています。(20:9)
この時代はエレミヤだけが特別に選ばれ召されましたが、なんと今は神様のことばを語る役目は全ての信仰者に与えられています。
(ヨエル 2:28-29)
その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。
イエス様を信じた人は、どんなに能力のな人であっても御霊が与えられ、主のみことばを語る人になります。若い人も年寄りも、しもべも、性別、能力、職業に関係なくです。ペテロもヨハネも無学で臆病な人でしたが聖霊が与えられた時に大胆に語る人になりました。(使徒4.12-13)イエス様は言われました。
(使徒1:8)
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。
牧師だけが語る人ではありません。聖霊を与えられた全ての人が神様のことばを伝える人になります。知者でも権力者でもなく、小さなものが選ばれています。
(1コリント 1:26-29)
兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
僕らは傷つきたくないし、人の罪を指摘するようなことはしたくありません。人から歓迎されるような、当たり障りのない話だけに流されがちです。でも、聖霊は人の罪を示し、悔い改めによる救いを与えようとしてくださっています。罪が指摘されないとそこからの救いはありません。神様は「罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」と言います。(ルカ24.47)罪を語ることはイエス様による赦しへと導きます。悔い改めを語らないことは、矢の刺さったカモを放置するようなものです。語るのは僕らでなく、聖霊です。
エレミヤの時代も僕らの時代も、自分の都合の良い話だけを求めます。でも、神様は「みことば」を伝えなさい、と言います。耳が痛くても、その先には癒しと回復が与えられるのが悔い改めの福音です。
(2テモテ 4:2-4)
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
僕らの口にもみことばが与えられています。神様が一緒にいるので恐れる必要はありません。語るのは御霊の力、内容はみことばです。
(7-9)
主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。
彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──主のことば。」
そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。
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