2023年1月5日木曜日

ルカ20.27-47

 イエス様を信じる人は死後に新しい体に復活します。それは御使いのような、完璧な、栄光ある、イエス様に似た体ですだからほんのひと時に過ぎないこの世での成功や栄光や賞賛を求めなくても大丈夫です

ある時「復活はない」と思っている人たちがイエス様に質問しました。


(27-33)

復活があることを否定しているサドカイ人たちが何人か、イエスのところに来て質問した。(…中略…)ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎え、子がないままで死にました。次男も、三男もその兄嫁を妻とし、七人とも同じように、子を残さずに死にました。最後に、その妻も死にました。では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」


何度も再婚した人は復活の時に誰の妻か?と言う質問です。「復活なんてありえない」と言いたげな質問ですそんな彼らにイエス様の答えは明確です復活の時には誰の妻でもなく、栄光ある御使いのように、結婚することがない完璧な体に変えられます。


(35-36)

次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちは、めとることも嫁ぐこともありません。彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです


御使いは栄光がある存在です。僕らには病気があり老いもあり、心も汚れて罪がありますが、そんな僕らの将来はまるで御使いのように全てが変えられた栄光ある人になります。


(1コリント15.42-44)

朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです


今、地上でどんなに体が弱くても、心が弱く汚れていても、すべてが取り除かれて栄光に輝く日がきます。しかも、信仰の先輩たちはすでにイエス様の近くでそのような栄光に変えられているようです。モーセが主とお会いした時、主はご自分のことを『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』言われました。モーセの時代にはとっくに死んでこの世にいない人たちだったはずです。でも、神様はアブラハム、イサク、ヤコブのことを生きている、とおっしゃり、ご自分のことを「生きている者の神」とおっしゃいました。


(37-38)

モーセも柴の箇所で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、死んだ者がよみがえることを明らかにしました。

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です神にとっては、すべての者が生きているのです。」


だからこの世の栄光や成功や賞賛はなくても、欲しがらなくても大丈夫です。僕らは新しい体に変えられ、栄光をいただくことが決定しています。むしろこの世の栄光は神様の前には価値のないものです


(46-47)

「律法学者たちには用心しなさい。彼らは長い衣を着て歩き回ることが好きで、広場であいさつされることや会堂の上席、宴会の上座を好みます。また、やもめの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです。」


復活のからだを楽しみにしましょう。イエス様からいただく栄光を楽しみにしましょう。僕らの国籍は地上にあるのでなく、天にあります!(ピリピ3.20)地上で人から認められなくても、挨拶されなくても、上座に座らなくても、見栄を張らなくても、信仰深そうに演じなくても大丈夫です僕らは神様の前で生きるものです

0 件のコメント:

コメントを投稿