律法によるなら僕らは全員神様の怒りに会います。聖書は「律法は怒りを招くものである」と言います。(ローマ4.15)ヨシヤ王は初めて律法の書を聞いた時に、神様の怒りに恐怖のあまりに衣を引き裂いて泣きました。
(11-13)
王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。(…中略…)「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主を求めよ。私たちの先祖たちがこの書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについて記されているとおりに行わなかったために、私たちに向かって燃え上がった主の憤りが激しいからだ。」
(16-17)
主はこう言われる。見よ。わたしは、ユダの王が読み上げた書物のすべてのことばどおりに、この場所とその住民の上にわざわいをもたらす。彼らはわたしを捨て、ほかの神々に犠牲を供え、自分たちのすべての手のわざで、わたしの怒りを引き起こした。こうして、わたしの憤りはこの場所に燃え上がり、消えることはない。』
ヨシヤ王は心を痛め、へりくだり、泣いて祈りました。そのように罪を悲しんで泣く人を神様はあわれんでくださいます。
(19-20)
あなたは心を痛めて主の前にへりくだり、自分の衣を引き裂いてわたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる──主のことば──。それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖たちのもとに集める。あなたは平安のうちに自分の墓に集められる。あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらす、すべてのわざわいを見ることはない。』」
怒りの神様が僕らをあわれみ、救われるために、神の怒りを受けて十字架で身代わりに死んでくださいました。
(ローマ 5:9)
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
神の怒りは今日も律法によって明白にされています。神の裁きはあります。神の怒りもあります。同時に、そんな僕らを憐れんで、愛してくださっています。
イエス様の十字架の処刑は神様の怒りの現れです。
イエス様の十字架の処刑は神様の憐れみと愛の表れです。
僕らが自分の罪にがっかりしているのなら幸いです。悲しみ、悔いて祈る心を神様は憐れんでくださいます。罪は認めましょう。告白して、認めて、捨てましょう。罪を悲しむ人は幸いです。赦されます。神様はさげすまれません。
(詩篇 51:17)
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
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