神様のみことばは実現します。人間にとって辛く厳しいことばであっても、神様のみことばは実現します。
ヨシヤ王は悔い改めて、国中の偶像を取り除きました。それでも神様の怒りは実現する、と聖書は僕らに伝えています。
(25-27)
ヨシヤのようにモーセのすべての律法にしたがって、心のすべて、たましいのすべて、力のすべてをもって主に立ち返った王は、彼より前にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、一人も起こらなかった。
それにもかかわらず、マナセが引き起こした主のすべての怒りのゆえに、主はユダに向けて燃やした激しい怒りを収めようとはされなかった。主は言われた。「わたしがイスラエルを除いたのと同じように、ユダもわたしの前から除く。わたしが選んだこの都エルサレムも、わたしの名を置くと言ったこの宮も、わたしは退ける。」
僕らが良い行いを積んだら神様の怒りと裁きは免除される、と思いたいものです。確かに悔い改める人を神様は憐れみ救ってくださいます。ヨシヤ王は心を尽くして神様に立ち返りました。神様はヨシヤ王に報いてくださり、これから下される神の怒りと裁きを見ることはない、と言ってくださいました。
(2列王22.19-20)
あなたは心を痛めて主の前にへりくだり、自分の衣を引き裂いてわたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる──主のことば──。それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖たちのもとに集める。あなたは平安のうちに自分の墓に集められる。あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらす、すべてのわざわいを見ることはない。
ヨシヤ王個人としては神様の怒りから逃れ、国の破壊を見ることはなく、平安の中で人生を終えて主の身元に行くことができました。でも、国に対する裁きは人間の善行によって取り消されるのではありません。ヨシヤ王の死後、ユダとエルサレムは「神様の命令によって」滅ぼされていきます。
(2列王24.2-4)
そこで主は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。主がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。
実に、このようなことがユダに起こったのは、ユダを主の前から除くという主の命によることであり、それはマナセが犯したすべての罪のゆえ、また、マナセが流した咎のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを咎のない者の血で満たした。そのため主は赦そうとはされなかったのである。
(2列王24.13)
バビロンの王は、主の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、主の神殿の中にあるイスラエルの王ソロモンが作ったすべての金の用具を切り裂いた。主が告げられたとおりであった。
神様はユダとエルサレムを怒り、災いを送り、ぬぐい去ると宣言されていました。そして「主が告げられたとおり」に滅ぼされて行きます。
今も、神様の怒りは聖書によって僕らに何度も宣言されています。それは取り消されることのないみことばです。
(ローマ 2:5)
ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。
イエス様がこの地上にこられ、最初に言われたことばは「悔い改めなさい」です。僕らがすべきことは、自分の罪を認め、イエス様の赦しを求め、悔い改めて神様に従うことです。この世界は滅びることが決定しています。同時に、その滅びから救ってくださるのはイエス様を信じることによって「のみ」です。この方以外に救われる方法はありません。人間の善行や努力にはよりません。イエス様を信じることによってだけ僕らは救われ、裁かれず、しかも、イエス様によって新しい自分に変えられます。
(ヨハネ 3:16-18)
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
この世は神の怒りによって滅びると聖書は言います。それは決定です。そして救いの道が与えられています。イエス様を信じることです。信じる人は救われます。変えられます。人の能力や権力や努力や善行ではありません。イエス様によります。イエス様以外に救いはありません!
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