2023年1月25日水曜日

イザヤ26章

 僕ら人間は安全や安心が欲しくていろんなもので自分を守ろうとします。いろんなものが助けになりますが、神様の裁きの日に僕らを守ってくれるものはこの世にありません。聖書はイエスキリストだけが救いであり守りであると伝えています。神様の裁きはイエス様が身代わりに受けてくださいました。これだけが僕らの唯一の救いです。イエス様を信じることは、安全な城壁の中に入れてもらうようなものです。イエス様は「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。」とおっしゃいました。(ヨハネ10.9)


(1-4節)

その日、ユダの地でこの歌が歌われる。私たちには強い都がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。

城門を開けて、忠誠を尽くす正しい民を入らせよ。

志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです

いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。


「その日」とはこの世の終わりの日のことですその時にイエス様を信頼する人は裁かれません。そのようにブレない人のことを「志の堅固な者」と書かれています。その人は「全き平安(完全な安心)のうちに守られます」とあります。イエス様の愛と赦しの福音を信じる人はどんな苦しみがあっても、神様からの平安と希望の中にいます。


(7-9節)

正しい人の行く道は平らです。あなたは正しい人の道をならし、平らにされます。主よ。まことに、あなたのさばきの道で私たちはあなたを待ち望みます。あなたの御名、あなたの呼び名は私のたましいの望みです私のたましいは、夜にあなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。まことに、あなたのさばきが地に行われるとき、世界の住民は義を学びます。


反対に、人間の知恵や力だけを頼りにする人はどんなに高くそびえる場所にいても、最後は倒されてしまいます。


(5-6節)

主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、その都を低くして、地にまで下らせ、これを投げつけて、ちりにまで下らされる。

足がこれを踏みつける。苦しむ者の足、弱い者の足の裏が。


僕ら人間はこうすれば安全、安心という神話を作ります。でも、全てが崩れて行くと聖書は言います。神様の裁きが始まってもまだそれを認めないのが人間のですイエス様が赦し、受け入れてくださる愛と恵みを聞かず、神様の怒りと裁きから目を背けます。


(10-11節)

悪しき者は、恵みを受けても義を学びません。公正の地にあっても不正を行い、主のご威光を見ようともしません。主よ。あなたの御手が上げられても、彼らは見ようとしません。


神様の怒りと裁きは信じる人の上にはありません。神の怒りが過ぎ去るまで、僕らはイエス様に保護されます。イエス様こそ安全な家です。イエス様のところに隠れていなさい、と聖書は言います。


(20-21節)

さあ、私の民よ。あなたの部屋に入り、うしろの戸を閉じよ。憤りが過ぎるまで、ほんのしばらく身を隠せ。それは、主がまさにご自分のところから出て、地に住む者の咎を罰せられるからだ。


裁きはイエス様が身代わりに受けてくださいました。安全な家に隠れなさい、というのは、イエス様の赦しの保証を信じることですこれが僕らの唯一の救いです。今日も僕らが福音(良い知らせ)による完全な平安の中を歩めますように。


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