神様にとってイスラエル人たちは、どんなに裏切られても愛する子であり妻であり宝であることには変わりません。そのことをイエス様は家出をして放蕩する息子の帰りを待つ父親のようだと言っています。(ルカ15.11-24)
イスラエル人たちは自分たちの罪のせいで、ひどい苦しみを何度も経験しました。しかし、それは愛する子どもへの懲らしめであって、神様はイスラエルを見放していません。神様の願いは彼らが慰さめられ、神様によって安心して養われることです。
(1-2節)
「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──
エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」
神様は罪を赦すと宣言しておられます。イスラエル人だけでなく、神様を信じる人は赦しを受けます。罪ゆえの苦しみは終わり、赦しだけでなく、神様の子どもとしての素晴らしい祝福を受けます。二倍のものを受けると書かれています。
その世界は羊が優しい羊飼いに守られ抱かれ安心して養われるようです。
(10-11節)
見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の御前にある。
主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
神様と離れた苦しみの人生を聖書は「荒野」「谷」「山」「険しい地」と表現します。(4節)でも、そのような場所に道が与えられ、イエス様とお会いし慰められることが預言されています。暗闇と絶望の中にいた人が、全ての危険から逃れて神様のもとで平安の中を暮らすようになることが書かれています。
(3-5節)
荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。
すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。
このようにして主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに主の御口が語られる。」
どんなに強く輝いているように見えるこの世の力も、神様から見ると一時的な草花のようです。
イスラエルを苦しめた強く輝く外国の力も過ぎ去ります。自慢だった自分の美しさも業績も消えていきます。残るのは神様の祝福の約束のことばだけです。
(6-8節)
「叫べ」と言う者の声がする。「何と叫びましょうか」と人は言う。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。
主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。
草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
聖書が伝えているのは、福音=「良い知らせ」です。それは苦しみの先にある慰め、喜び、祝福です。これをなんとか全ての人に伝えなさい、と言います。力のかぎり、高い山に登って多くの人に聞こえるように声をあげなさい、と聖書は言います。
(9節)
シオンに良い知らせを伝える者よ、高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ、力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ、あなたがたの神を。」
聖書が伝えているのは希望であり喜びです。
どんな苦しみも過ぎ去ります。どんな世の力も繁栄も過ぎ去ります。最後に残るのは神様からの福音だけです。
多くの人たちがなくなることのない希望を知ることができますように。
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