2023年1月25日水曜日

ヘブル7.1-10

 僕ら人間はどの人にも罪があるので神様に近づくことができません

そんな僕らの罪を赦し、きよめ、神様に受け入れてもらえるように祈ってくれる仲介者が必要です

旧約聖書の時代はそれが「大祭司」と言われる人でした。子どもの失敗を親が代わりに謝るように、平社員の失敗を社長が代表して謝りに行くように、人々の代表として神様の前に赦しを願いに行きます。これはイスラエル人で一人だけ選ばれ、人々の罪を赦してくださるように神様の前に出て祈る人でした。


今、僕らが神様に受け入れられるのは、イエス様が天の大祭司として僕らの罪を赦し、今日も僕らのために祈っていてくださるからです

僕らはイエス様によって神様に赦され、神様に近づくことができます。クリスチャンが祈るときに「イエス様の名前で祈ります」とか「イエス様の名前を通して祈ります」と言うのはこの理由です


(ヘブル4.14-16)

さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、(…中略…)私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。


(ローマ8:34)

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです


この手紙はヘブル人への手紙です。(ユダヤ人への手紙の意味)彼らが愛読している旧約聖書によれば「大祭司」とは「レビ部族限定」のはずです。なのに、イエス様はレビ部族ではありません。だから「どうしてイエス様を大祭司と言えるのだろう」と思った人たちもいました。旧約聖書と違う、と思って信じるのをやめる人もいたようです。そこで、この手紙ではイエス様こそ旧約聖書が示している偉大な大祭司だし、今も生きていて天でとりなしてくださっている大祭司ですと教えています。


(6.20)

イエスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです


イエス様の場合は、アロンの子孫としてではなく、メルキゼデクのようにレビ族じゃないのに大祭司となりました。メルキゼデク、という人は創世記14章に出てくる大祭司です


(1-4節)

このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。

アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えました。彼の名は訳すと、まず「義の王」、次に「サレムの王」、すなわち「平和の王」です。父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっているのです。さて、その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えました。


このメルキゼデクはイエス様の姿をあらかじめ表している人でした。まず、レビ族ではないのに大祭司です。そして、王様です。(しかも、義の王、平和の王とはイエス様の称号です。)そしてはじめも終わりもない方です。そして、神の子に似たものです。この人はイエス様の姿を予告しています。アブラハムから最高のささげものを受け取り、しかもアブラハムを祝福しています。


(6-7節)

ところが、レビの子らの系図につながっていない者(メルキゼデクのこと)が、アブラハムから十分の一を受け取り、約束を受けたアブラハムを祝福しました。言うまでもなく、より劣った者が、よりすぐれた者から祝福を受けるものです


イエス様こそ今も生きている大祭司です

旧約聖書の時代、人間であるレビ族から祭司が選ばれ、彼らの生活費は他の人々が収穫の1/10を納めることで支えられていました。これは彼らが神様への奉仕に専念できるための神様からの仕組みでした。


(5節)

レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、同じアブラハムの子孫であるのに、民から、すなわち自分の兄弟たちから、十分の一を徴収するように、律法で命じられています。


でも、メルキゼデクは別格です。彼は生活のために1/10を集めることはしません。ですが、アブラハムは最高のものをささげています。

アブラハムから「レビ族」が誕生するずっと前から存在し、最高のもの(アブラハムの場合は戦利品の最高のものから1/10)を受け、そして人々に祝福を与える方です大祭司に選ばれるレビ部族よりもずっと上の存在ですいのちの終わりはなく(3節)、今も生きている方です。(8節)


(6-8節)

ところが、レビの子らの系図につながっていない者が、アブラハムから十分の一を受け取り、約束を受けたアブラハムを祝福しました。

言うまでもなく、より劣った者が、よりすぐれた者から祝福を受けるものです

十分の一を受けているのは、一方では、死ぬべき人たち(レビ部族で選ばれた人たち)ですが、他方では、生きていると証しされている人(永遠に生きているメルキゼデクやイエス様のこと)です


このイエス様が今日も僕らのことを愛し祈っていてくれるます。

僕らはイエス様によって神様に赦され、受け入れられています。イエス様は僕らを完全に救うことができる大祭司です

このイエス様こそが僕らが天に迎えられる保証だし、希望です


(19節)

──律法は何も全うしなかったのです──もう一方では、もっとすぐれた希望が導き入れられました。これによって私たちは神に近づくのです


(25節)

イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。


今日も祈られています。今日も受け入れられています。大丈夫です


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