僕らは順調な時、平和な時ほど神様を忘れやすいようです。
「苦しみ」 は高ぶって神様を忘れる人に神様を思い出すために与えてくださる ものです。ダビデは順調に行って平和な時に「自分は( 神様に頼らなくても)決してゆるがない」 と高ぶるようになりました。人はうまくいく時に神様を忘れます。 そして神様はお望み通りに姿を隠されます。
6 私が栄えたときに、私はこう言った。
「私は決してゆるがされない。」
7 主よ。
あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。
あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。
ダビデは神様をあがめて感謝しています。…が、 これは最初からできたのでも当たり前でもありません。彼は「 苦しみ」を通して神様に本気で求め、 神様を信頼する人に変えられました。
1 主よ。
私はあなたをあがめます。
あなたが私を引き上げ、 私の敵を喜ばせることはされなかったからです。
2 私の神、主よ。
私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。
苦しみの中にこそ神様の救いはあるし、 神様は苦しむ人を見捨てません。 苦しみの中でダビデはもう一度心から神様に叫び求め、 癒されました。 苦しみは神様の愛と救いを体験するために与えられたものです。
3 主よ。
あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に( 神様から完全に引き離された死に)下って行かないように、 私を生かしておかれました。
4 聖徒たちよ。
主をほめ歌え。
その聖なる御名(神様が良くしてくださった記憶)に感謝せよ。
5 まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
6 私が栄えたときに、私はこう言った。
「私は決してゆるがされない。」
7 主よ。
あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。
あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。
僕らも同じように順調な時に高ぶり神様から離れます。聖書は「 苦しみに会う前はわたしは過ちを犯しました」と言います。( 詩篇119.67) でも、 苦しみによって僕らは神様を呼び求めるように変えられます。 6節-8節をリビングバイブルは次のように訳しています。
6-7順境の日に、私は言いました。
「いつまでも今のままだ。
だれも私のじゃまはできない。
主が恵んでくださって、
私をびくともしない山のようにしてくださった。」
ところが、神は顔をそむけて、
祝福の川をからしたのです。
たちまち私は意気消沈し、恐怖におびえました。
8ああ主よ。私は大声でお願いしました。
この高ぶりと絶望を通して、 彼は神様に心から求める人になりました。 もし苦しみがなく順調の人生だったとしても、 神様から離れて死んで行くなら何の価値もありません。
9 私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。
ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。
あなたのまことを、告げるでしょうか。
ダビデはうぬぼれをやめました。 苦しみによってこそ神様が自分を見放さすことなく癒し、 嘆きを踊りに、悲しみを喜びに変えてくださる主を知りました。 ダビデは心から感謝し賛美していますが、 これは当たり前ではなく、挫折を味わった人の心からの感謝です。
10 聞いてください。
主よ。
私をあわれんでください。
主よ。
私の助けとなってください。
11 あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。
あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。
12 私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。
私の神、主よ。
私はとこしえまでも、あなたに感謝します。
今も僕らの人生には弱さや苦しみがつきまといます。 これは僕らが自分に頼ることをやめ、 弱い僕らの内側にいてくださるイエス様の力と恵みはっきりとしる ためです。疲れてなければ、 キリストの力を知ることはありません。時間がないからこそ、 時間を超えた神様を体験できます。お金がないからこそ、 全ての富を持っておられる神様を体験できます。聖書は言います。 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、 わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」( 2コリント12.9)「心の貧しい者は幸いです。 天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5.3)
神様は嘆きを踊りに変えてくださいます。 涙を喜びに変えてくださいます。今日、 苦しみや悲しみが与えられたら感謝しましょう。高ぶらず、 心から神様を求めるためのプレゼントです。
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