2023年2月1日水曜日

マルコ6.14-29

 僕らは弱いもので、神様の教えを知っていながらもこの世の圧力や自分のプライドや欲望には勝てず、結局神様には従わない選択をしがちなものです。その結果はみじめさ、後悔、不安だけが残ります。なんと、あの使徒パウロでさえ神様の律法は正しい良いものだとわかってるし従いたいけど従えず、悪に負けてしまう惨めな人間です…、と告白しています。(ローマ7.19-24)これは全人類が抱える同じ問題です。


神様の律法を学ぶほどに、聞けば聞くほどに自分が罪に負けてしまう弱く惨めな人間であることは明らかになります。「聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。」と表現します。(ガラテヤ3.22)明らかになった自分の罪は人を惨めにし後悔させます。でも、それで終わりません。その惨めさは僕らをキリストに導きます。聖書は言います。



(ガラテヤ3:24

こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。



聖書の教えを正しい、聖なる良いものだと知りつつも欲望にも強い人からの圧力にも負けてしまった実例があります。それはヘロデ王です。彼は自分の罪を後悔し、自分のしたことを不安に思い続けた人です。


彼は、兄弟の妻ヘロディアを奪って自分の妻としました。それは律法違反であり、姦淫であり盗みです。ヘロデはそれをバプテスマのヨハネに責められ、その教えが正しく聖なるものだとはわかっていました。でも、自分の欲望にも、メンツにも勝つことができず、バプテスマのヨハネを処刑してしまいます。彼は処刑してしまったことを後悔し、恐れていました。イエス様のことを聞いて、自分が殺したヨハネが生き返ったのではないか、と恐れます。


(14-16)

さて、イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ。」

ほかの人々は、「彼はエリヤだ」と言い、さらにほかの人々は、「昔の預言者たちの一人のような預言者だ」と言っていた。

しかし、ヘロデはこれを聞いて言った。「私が首をはねた、あのヨハネがよみがえったのだ。」



ヘロデがメンツや欲望や圧力に勝てなかった詳細は以下の通りです



(17-28)

17,実は、以前このヘロデは、自分がめとった、兄弟ピリポの妻ヘロディアのことで、人を遣わしてヨハネを捕らえ、牢につないでいた。

18,これは、ヨハネがヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものにするのは、律法にかなっていない」と言い続けたからである。

19,ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、できずにいた。

20,それは、ヨハネが正しい聖なる人だと知っていたヘロデが、彼を恐れて保護し、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていたからである。

21,ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが自分の誕生日に、重臣や千人隊長、ガリラヤのおもだった人たちを招いて、祝宴を設けたときのことであった。

22,ヘロディアの娘が入って来て踊りを踊り、ヘロデや列席の人々を喜ばせた。そこで王は少女に、「何でも欲しい物を求めなさい。おまえにあげよう」と言った。

23,そして、「おまえが願う物なら、私の国の半分でも与えよう」と堅く誓った。

24,そこで少女は出て行って、母親に言った。「何を願いましょうか。」すると母親は言った。「バプテスマのヨハネの首を。」

25,少女はすぐに、王のところに急いで行って願った。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます。」

26,王は非常に心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、少女の願いを退けたくなかった。

27,そこで、すぐに護衛兵を遣わして、ヨハネの首を持って来るように命じた。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、

28,その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。少女はそれを母親に渡した。



聖書は「悪者どもには平安がない。」と言います。(イザヤ48.22)罪をしてしまい後悔し不安に付きまとわれるのは僕ら共通の問題です。解決は、イエス様によって赦されること以外にありません。パウロは「私は、ほんとうにみじめな人間です。」と言いながら、(ローマ7.25)それでも「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(…中略…)今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」と断言します。(ローマ7.25-8.2)律法は正しく良いものです。そして律法はそれを守ることができない僕らをキリストの元に導いてくださいます。



(ガラテヤ3:24-25)

こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。

しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。



イエス様の福音は罪人が赦され、新しくされることです。

信じた人は変えられます。内側から罪を憎み、退け、律法に従いたいと思うようになります。それは重荷とはなりません。後悔は消え、不安ではなく平安を取り戻し、生活は欲望やプライドから解放されて行きます。


イエス様は必ず僕らを変えてくださいます。律法に従うことができる新しい自分がスタートします。

答えはイエス様にしかありません。ハレルヤ!

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