2023年2月6日月曜日

ローマ6.15-23

 聖書は「罪」を横暴な王様のように言います。「罪」は最初は楽しく見せて置いて、人間を捕まえて支配します。やめたくてもやめられない、そのような縛りです言うこと聞かされて、もう嫌なのに、恥ずかしいのに、やめられず、逃場がないブラック企業のようです僕ら人間は全員生まれながら「罪様」の奴隷でした。(5.12)


ところが、イエス様を信じた人はイエス様とつながって一体となりました。これが「バプテスマ」(浸す、一体となる)の意味ですイエス様の人生と僕らの人生が一つにつながりました。イエス様は罪人代表になってくださり、人に捨てられ、恥を受け、神様の裁きを受けて呪われました。そのイエス様と一つになったのだから、昔の罪人の僕らも死んだ、と聖書は言います。


(3-4節)

3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです


キリストを信じることはキリストの以下の2つの面と一体化するこです

①キリストと一緒に罪人の私は死にました。

②キリストと共に新しい私が生きています。


キリストは復活して今も力があり、永遠の命があり、きよさがあり、愛があり、無限の御霊があり、栄光があります。その素晴らしい祝福だけしかないキリストと僕らは合体しました。これがクリスチャンの身分です

もう、罪はクリスチャンを支配することはありません。クリスチャンは罪に対して死んだ人だと思いなさい、認め続けなさい、と聖書は言います。答える必要はありません。罪がいくら呼びかけてきても、死んでるので聞こえないし、反応しないし、動けない、そのように罪に対しては死人だと思いなさい、と言うのが11節です


(11節)

同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。


(17-18節)

17神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、18罪から解放されて、義の奴隷となりました。


以前は罪の奴隷だったけど、キリストと一緒に死んで横暴な王様「罪様」とは別れました。死別です。そして、今はキリストという王様の奴隷になりました。そこには喜びがあります。義とは、神様との愛の関係、正しい関係、と言う意味です。僕らは心から喜んで、進んで神様にしたがいたい、と思うようになります。イエス様は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」とおっしゃいました。(マタイ11:30)


僕らの心も体もイエス様と合体しています。僕らとキリストはぶどうの木と枝であり、かしらと体の器官ですつまり、頭のてっぺんから足の先までがキリストのものですキリスト教は心の中だけのことではありません。手足の使い方が新しくなると言うことです。福音とは心と同時に、口の使い方、耳の使い方、目の使い方、時間の使い方お金の使い方全部がキリストのものとなっていくことです。信仰とは、体の使い方の問題です


(19節)

19あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。


罪の奴隷だった時は、心も体も全部が罪のものとなっていました。悪口を言い、やってはいけないことをしていました。罪は心だけでなく、手足を、生活全部を蝕んで行きます。が、同じように、キリストは僕らの心だけでなく、手足を、生活全部を祝福と命にあふれさせてくださいます。


そんな僕らが、もしも今でも罪をするなら、それはキリストの体の一部を無理やり罪のために使うようなものです。


(15節)

では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。


(1コリント 6:15)

あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。


今もいつも手を握りしめてくださっているイエス様を振り切って、罪に手足をささげるなら、その先は恥、劣等感、罪責感と共に神様とも人間関係も壊れます。死とは、関係が断絶することです。命である神様から断絶することが「死」です


人は失敗すると、その自分の秘密の恥を知っている人を避けます。そのように罪は人間関係を壊します。そして、神様との関係も壊します。神様を礼拝することも教会の交わりも避けるようになります。その先は死です


(16節)

16あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。


(20-21節)

20あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。21ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものですそれらの行き着くところは死です


(23節)

23罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです


罪は今も僕らを誘惑し攻撃します。が、イエス様は完全に勝利しています。イエス様が悪に負けることはありません。そのイエス様につながる限り、僕らも罪に負けることはありません。イエス様が罪に悪魔に負けることはないからです僕らは義の奴隷です。義とは神様との愛の関係、正しい関係のことです


僕らの過去は終わりました。今はキリストの僕、キリストの奴隷とされました。そこには喜びがあり祝福があり、命があります。

罪とは決別しましょう。無視しましょう。その先になんの良いこともありません。イエス様の十字架によって罪人の僕らは死に、今、キリストが僕らの中に生きておられます。ハレルヤ!


(ガラテヤ 2:20)

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです

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