ローマ人への手紙は何度も「あなた方はキリストとつながった」と繰り返します。キリストを信じることはキリストの人生とつながることです。キリストは罪人代表として十字架で処刑されました。だから信じた僕らもキリストと一緒に死んだと認めなさい、と聖書は言います。(6章11節)死んだ人は罪をすることができません。また、罪は死んだ人を支配することができません。(6章14節)僕らは「罪」という横暴な支配者と死別し、イエス様という命の王とつながりました。(6章4節)
クリスチャンは罪だけでなく、「律法」とも死別したと聖書は言います。「律法」とは旧約聖書に書かれた神様の教えです。律法は僕らを守り祝福するためのものですが、それを守ることができない人に死を要求します。死刑を要求する律法は実現し、僕らはキリスト一緒に処刑を受けました。
そのことを、まるで結婚生活が死によって終わるように、僕らは「律法」に結びつく生活は終わったと言っています。
(1-2節)
それとも、兄弟たち、あなたがたは知らないのですか──私は律法を知っている人たちに話しています──律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だけです。2結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死んだら、自分を夫に結びつけていた律法から解かれます。
キリストを信じた人は、キリストと一緒に死んだ人です。律法によって罪を指摘され、有罪判決を受け、死刑を受けるべき僕らは死にました。だから、律法が僕らに要求する死刑は終了しています。もう、律法は僕らに何も要求できません。生きている間は夫婦は互いに結ばれていますが、相手が死んだら誰と再婚しても自由です。そのように、僕らは厳しい処罰を要求する「律法」とは死別し、新しい命を与えてくれるイエス様と結婚したかのようです。聖書はキリストと教会に属する僕らのことを夫婦のようだと繰り返しています。(エペソ5.31-32)
(3-4節)
3したがって、夫が生きている間に他の男のものとなれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死んだら律法から自由になるので、他の男のものとなっても姦淫の女とはなりません。4ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。
イエス様と結婚し、イエス様の命とつながった僕らは実を結びます。イエス様の命や知恵、愛や真実さは体の器官である僕らに現れます。
(4節)
それは、あなたがたがほかの方、すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。
律法は神様の教えであり、良いものです。律法は僕らの罪を取り除くことができませんが、僕らの中にある罪を指摘して教えてくれます。
(7節)
7それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。
(12節)
ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。
例えば、モーセを通して与えられた十戒は僕ら人間にとって良いことばかりです。神様を敬い、人を敬うことはどの教えも良いものばかりです。
ところが、神様からの命がなければ僕らは律法を守ることができません。僕らは「罪」という支配者に隷属されていたし、いくら律法を聞いても「罪」は律法に従わせてくれませんでした。だから、律法を知るほどに苦しくなりました。「罪」は圧倒的な力を持って僕らを支配し、律法を知れば知るほど、それができないようにさせ、僕らを苦しめてきました。
「罪」はすごく悪い存在です。ひどい人です。神様が与えてくださった律法が与えられるたびにそれを悪用して人間を苦しめます。「ほら、また守れない」「律法はお前をさばいている」などと告発し続けます。律法は罪を教えてくれます。が、罪を取り除くことはできず、むしろ、「罪」は律法があると喜びます。なぜなら、「お前は悪いやつだ」と指摘しやすく、また守れないようにルールの真逆に縛りやすくなるからです。「罪」はわざとに律法の教えと逆のことをさせます。罪にとって律法は喜ばしいものです。「罪は戒めによって機会をとらえ」たと言います。機会とは、攻撃し破壊する軍事基地の意味です。神様からのルールがあると、ピンポイントでその通りに人間に罪をさせ、落胆させます。律法は罪と悪魔にとって格好の足場、基地、攻撃拠点に利用されてきました。
(8節-11節)
8しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。9私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、10私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。11罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。
律法は良いものです。人間を幸せにするための神様からの教えです。
お父さんが子どもが事故に合わないように柵を作って、「ここから出たらダメだよ、危険だよ」というようなものです。ルールはお父さんからの守りであり愛です。ところが罪はわざとその柵を越えるように働きます。そして、お父さんと子どもの関係を壊そうとします。柵を作るお父さんは悪い人、縛る人、と思わせます。そして柵を超えた瞬間にお前はひどい人だ、と責めます。つまり、罪は神様からの良いルールさえ悪用して、神様と人間の関係を壊します。
(12-13節)
12ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。
13それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。
僕らは律法に対してキリストと一緒に死にました。
もう「あれをしろ」「これをしろ」と言われたり、できない自分にがっかりしたり、神様は厳しすぎる、と思ったり、神様に責められたりすることはもうありません。イエス様が真理であり、イエス様の御霊が僕らの中に生きておられます。
命のない文字だけに従っているのではないです。命そのもの、真理そのものであるイエス様に僕らは繋がりました。
(6節)
しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
僕らはイエス様に似せられて変えられ続けます。これは専門用語で「聖化」と言います。そして、その全ては人間の「ねば」「べき」という頑張りでなく、命そのものであるイエス様につながったことによります。僕らがイエス様と出会い、方向転換をし、成長していく全てのプロセスが神様の御霊によります。律法はイエス様と繋がることで実現します。
文字でなく、御霊です。律法でなく、御霊です。僕らは今日も成長させられ、自由にさせられています。全ては主によります。ハレルヤ!
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