ヨハネの手紙第一2.1-17
イエス様は僕らの身代わりに神様の怒りを引き受けて、十字架の上で死んでくださいました。神様の怒りをなだめるための死です。イエス様こそ、僕らの罪のためのなだめの供え物です。聖書は僕らが赦されたことを繰り返して伝えています。
12 子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。
あの十字架の犠牲によって自分の汚れが赦されきよめられたことを信じる人は、もう罪をしたくない、と思うようになります。
1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。
それでも僕らは失敗し罪をしてしまうことがあります。そんな僕らをイエス様は見放さず、毎日祈り続けてくださいます。弁護し続けてくださいます。
1 もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。
イエス様の犠牲の大きさを知った人は罪をやめて、神様の命令を守りたいと思うように変えられます。神様への感謝は「命令に従いたい」という思いに変えられます。それは神様と体験的に交わっているしるしです。
3 もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていること(体験的に交わっていること)がわかります。
4 神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。
5 しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。
もしも、兄弟を憎み続けている人がいるなら、その人は今だに自分が赦されていることや、イエス様が自分のいのちを犠牲にしてくださったことを知らない人です。
9 光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。
10 兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。
11 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。
イエス様との交わりは教会の仲間との交わりにつながります。教会の仲間たちはキリストの体の器官だし、キリストの枝だからです。イエス様に赦された人は、教会の仲間を赦したいと思うようになります。隣人を赦し、愛する決断は、僕らが神様との交わりにはいっているしるしです。
3 もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていること(体験的に交わっていること)がわかります。
4 神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。
5 しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。
「信じます」と言いつつ隣人の悪口、批判、憎しみを愛している人はニセモノです。、隣人を愛し、赦す人こそ本物です。
9 光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。(…中略…)
11 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。
僕らはイエス様に赦されました。
大きな犠牲によって赦していただきました。
今度は僕らの番です。
隣人を赦しましょう。主が赦して下さったように、隣人を赦し、愛し、祝福しましょう。神様の愛は僕らが隣人を赦し、愛することによってあらわされます。
5 しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。
6 神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。
イエス様の愛は僕らの行動にあらわされます。僕らはイエス様とつながりました。
聞くだけで終わるのでなく、実行する人こそ本物です。
今日も、僕らがキリストの体の器官として用いられますように。赦しと祝福が僕らを通して隣人にあらわされますように。
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