創世記26.14-34
イサクは神様に祝福された人でしたが、その結果、どこに行っても土地の人々からねたまれ、攻撃を受けました。イサクはどんなに攻撃されても、神様に愛され、守られ、祝福されるということばを忘れることがありませんでした。
15 それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。
16 そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」
ペリシテ人たちは井戸に土を入れるという嫌がらせをします。井戸を塞ぐことは、死ねと言わんばかりの攻撃です。土地の王様アビメレクからはこの土地から出て行くように言われます。イサクは争わない人でした。そして移住します。昔、嫌がらせで塞がれた井戸をもう一度掘り直します。
17 イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。
18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。それらはペリシテ人がアブラハムの死後、ふさいでいたものである。イサクは、父がそれらにつけていた名と同じ名をそれらにつけた。
19 イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。
20 ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ。」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセク(争い)と呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。
21 しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナ(敵意)と呼んだ。
どこに行っても攻撃されます。生活に必要な水を奪われることは、お前は生きる資格がない、出て行けと言われるかのようです。それでもイサクは神様の祝福を信じ続けます。神様から言われたことを忘れません。周りの人々が自分を否定しても、神様は肯定してくださっています。みんなが敵でも、神様は味方です。イサクは争わず、また移動します。そして、ついに争いのない井戸を手に入れ、神様からの祝福のことばをもう一度聞くことができました。
22 イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。(…中略…)
24 主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
25 イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。
イサクはどこに行っても復讐せず、敵意に対して平和的な解決を選びました。そして、どこに行っても神様はイサクを祝福してくださいました。それを見た土地の王様アビメレクはついに正式な平和条約を求めてきます。
26 そのころ、アビメレクは友人のアフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来た。
27 イサクは彼らに言った。「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。あなたがたは私を憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。」
28 それで彼らは言った。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。
29 それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。あなたは今、主に祝福されています。」
イサクはさんざん嫌がらせを受けてきた相手でしたが、赦し、平和条約を結びます。
30 そこでイサクは彼らのために宴会を催し、彼らは飲んだり、食べたりした。
31 翌朝早く、彼らは互いに契約を結んだ。イサクは彼らを送り出し、彼らは平和のうちに彼のところから去って行った。
イエス様は敵を赦し、敵を祝福しなさい、とおっしゃいます。(マタイ5.44など多数)自分を傷つけた人を赦し愛することは、僕らの肉の心では出来ません。僕らの心と御霊の心は対立しています。
(新約聖書 ガラテヤ 5:17)
肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
「自分にはムリ、赦せない」と自覚している人は幸いです。心の貧しい人は幸いです。(マタイ5.3)相手を赦すことは自分にはできません。でも、私の中に住んでおられる聖霊がそうさせてくださいます。僕らが相手を赦すことは、自分の考えでなく、神様にゆだね、神様にさせて頂く決断です。自分としては赦せません。でも、神様は相手を赦したいと願っておられます。それは、自分の心の運転席にイエス様をお迎えするかのようです。僕らがすべてきは、心も体もイエス様に明け渡し、イエス様が主権を持つことを「許可」することです。私が王様ではなく、イエス様が王様です。だから、自分の心はイエス様に明け渡しましょう。
(新約聖書 ローマ 12:17-21)
だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
イエス様を信じる人は神様に愛され守られている人です。僕らのためには十字架で死んでくださるほどに愛されています。神様は僕らの味方です。その神様が僕らを本当の祝福へと招いてくださっています。敵を赦し、愛する決断こそ、イエス様の願いです。
(新約聖書 コロサイ 3:13)
互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
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