2023年6月30日金曜日

新しい制作環境でのピアノの音。感謝

 愛用していたパソコンが不具合で初期化をせざるを得なくなり、困っていたところ神様から与えられた新しい音楽制作アプリとMac。やっぱり今までよりピアノの音もいいと思います。神様のなさることは全て美しいです。ハレルヤ!


2023年6月29日木曜日

詩篇19.7-14

 詩篇19.7-14


「こうすればうまくいく!」と言う話は僕らの大好物です。あれを食べたらいい、あれを飲んだらいい、こうしたらいい、と聞くたびにやってみよう、と思います。でもブームは去ってしまいます。仮に、良いことを全部やって成功し、心も体も健康になり富も名声も手に入れても、人は必ず全てを失い死んでいきます。イエス様は「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」と言われました。(マタイ16.26)


絶対になくならない永遠のいのち、そして、永遠になくならない喜びを与えてくれる言葉は「主の教え」「主の証」(7)「主の戒め」「主の仰せ」(8)です。世界が激変し、世界が滅んでも、主の教えは本当に永遠に「こうすればうまくいく!」です。



(7-9)

7,主のおしえは完全でたましいを生き返らせ主の証しは確かで浅はかな者を賢くする。

8,主の戒めは真っ直ぐで人の心を喜ばせ主の仰せは清らかで人の目を明るくする。

9,主からの恐れはきよくとこしえまでも変わらない。主のさばきはまことでありことごとく正しい。



主の教えはたましいを生き返らせます。それはたましいも体も安息することを教え、全てを健康にします。ちょっと元気になれた、という話でなく、高齢になって衰えても、死にむかっていても「内なる人は日々新たにされて」いきます。(2コリント4.16)


そして、どんなに浅はかな人でも賢くします。教育も知識もなくても、主のおしえは僕らを賢くします。神様の教えだからです。有名な博士の研究も素晴らしいけども、主の教えはそれとは比べられません。なくならない永遠のいのちと祝福と喜びをもたらすものだからです。主の戒めは「あれダメこれダメ」と人を窮屈にするものではありません。反対に「人の心を喜ばせ」「人の目を明るく」します。(8)「真理はあなたがたを自由にします。」とイエス様は言われます。(ヨハネ8.32)


主のことばを聞くことで心の視力が上がります。物事を神様の目線で物事を見て判断することができるようになります。それは「ことごとく正しい」判断です。(9)だから、主のことばは、どんな犠牲を払ってでも手に入れるべき唯一のものです。イエス様はそれを「必要なことは一つだけです」とおっしゃいました。(ルカ10.42)



(10-11)

10,それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。

11,あなたのしもべもそれらにより戒めを受けそれを守れば大きな報いがあります。



何億円も手にすることよりも、主のことばの方が価値があります。お金をたくさん持ってTDLやUSJに行くことも楽しいと思います。感謝して楽しみましょう。でも、それよりももっと、生きて働き世界を支配している神様のことばを聞くことの方が楽しく甘く、しかも永遠の喜びと大きな報いがあります。ミッキーのレベルではありません。主のことばは自分も知らなかった自分の状況を教えてくれます。傲慢になっていることや間違ってることも教えられます。



(12-13)

12,だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか隠れた罪から私を解き放ってください。

13,あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて全き者となるでしょう。



主のことばによってキリストに似たものへ、栄光から栄光へと変えられて行きます。「こうすればうまくいく!」と言う話は僕らの大好物です。主のことばこそが、本当に永遠に「こうすればうまくいく!」です。ハレルヤ!

詩篇18.30-50

 詩篇18.30-50


「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」と聖書はいいます。(ローマ11.36)全ての存在の源は神様で、『わたしはある。』という方です。(出エジプト3.14)命も力も出来事も全てこの方の手の中にあります。だから神様は「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」「御名が聖なるものとされますように。」と祈りなさい、と言われます。僕らが神様だけを求め、神様だけに頼るためです。もちろん準備や助けてくれる人や便利な道具やお金も必要ですが、それらをちょうど良く与えてくださるのは神様です。

ダビデはサウル王に命を狙われ、いつも逃亡生活を強いられていました。苦しくて危険で、他に頼るものがないからこそ神様の助けと力の確かさを知らされる逃亡生活でした。彼はすべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日にこの詩篇を歌います。


(31-36)31,主のほかにだれが神でしょうか。私たちの神を除いてだれが岩でしょうか。32,神は私に力を帯びさせ私の道を全きものとされます。33,主は私の足を雌鹿のようにし高い所に立たせてくださいます。34,戦いのために私の手を鍛え腕が青銅の弓も引けるようにしてくださいます。35,あなたは御救いの盾を私に下さいます。あなたの右の手は私を支えあなたの謙遜は私を大きくします。36,あなたは私の歩みを大きくし私のくるぶしはゆるみません。


ダビデが生き延びることができたのは神様のおかげです。必要な力も訓練も与えてくださったのは神様です。自分を憎み殺そうとする敵が滅んでいくのも神様の恵みでした。


(40-42)40,あなたは敵が私を憎む者どもが私に背を見せるようにされました。私は彼らを滅ぼしました。41,彼らが主に叫び求めても救う者はなく答えもありませんでした。42,風の前のちりのように私は彼らを粉々に砕き道の泥のように除き去りました。


ダビデは王様になりましたが、威張ることをしません。いや、できません。全てが神様の力であり神様の恵みであることを知っているからです。


(43-38)43,あなたは民の争いから私を助け出し国々のかしらに任じられました。私の知らなかった民が私に仕えます。44,彼らは耳で聞くとすぐ私に聞き従います。異国の人々は私にへつらいます。45,異国の人々は打ちしおれ砦から震えて出て来ます。46,主は生きておられる。ほむべきかなわが岩。あがむべきかなわが救いの神。47,この神は私のために復讐する方。諸国の民を私のもとに従わせてくださる。48,神は敵から私を助け出される方。実にあなたは向かい立つ者から私を引き上げ不法を行う者から救い出してくださいます。


ダビデがすることは、ただただ神様「だけ」を賛美することです。賛美は、神様がどんなに素晴らしいお方か語り、宣言し、歌い、感謝することです。


(49)49,それゆえ主よ私は国々の間であなたをほめたたえます。あなたの御名をほめ歌います。


ダビデの神様は僕らの神様です。今日も僕らの命も力も神様から与えられます。苦しいことも悲しいことも神様だけを呼び求め、神様を偉大さを体験するためのプロセスです。主のほかに救いはありません。主のほかに頼るべきものはありません。今日は賛美の日、信頼する日、祈る日、求める日、感謝する日です。主の御名が聖なるものとされますように。ハレルヤ!

2023年6月27日火曜日

詩篇18.1-19

 詩篇18.1-19


初めて「荒野」に行きました。体験した荒野は思った以上に死の世界でした。何もなく、ひたすら岩や砂だけが永遠と続くだけで、太陽の熱さは凄すぎて、乾き過ぎで汗も流れません。すぐに喉はカラカラです。まだ4月なのに30度を超えてました。あそこに放り出されたら干からびて死ぬだけです。「主はわが巌」「身を避けるわが岩」(2)と言う聖書の意味が少しわかった気がしました。大きな岩さえあれば生き延びることができます。影に入ることができ、岩の避け目は嵐からも日照りからも敵からも守ってくれます。岩はシェルターのようです。


ダビデは王様サウルから命を狙われ荒野をさまよいました。いつも死と隣り合わせの逃亡生活です。実際に岩の洞穴に隠れて生活しました。ただ、神様により頼むことだけが救いでした。そして神様はダビデを救ってくださいました。神様が救いの全てであり、他に頼るものは何もありませんでした。ダビデは感謝と賛美を主に歌います。それがこの詩篇です。



(18.1-6)

指揮者のために。主のしもべダビデによる。主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを主に歌った。

1,彼は言った。わが力なる主よ。私はあなたを慕います。

2,主はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神。わが盾 わが救いの角 わがやぐら。

3,ほめたたえられる方。この主を呼び求めると私は敵から救われる。

4,死の綱は私を取り巻き滅びの激流は私をおびえさせた。

5,よみの綱は私を取り囲み死の罠は私に立ち向かった。

6,私は苦しみの中で主を呼び求めわが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ御前への叫びは御耳に届いた。



ダビデよりも敵の方が強かったし、敵や状況を見れば絶望しかありませんでした。敵はいつでも自分を殺すことができます。まるでロープに縛られて死へと引きずられていくようでした。「の綱は私を取り巻き滅びの激流は私をおびえさせた。」(4)とダビデはいいます。その絶望から救ってくださるのは唯一神様だけでした。



(16-19)

16,主はいと高き所から御手を伸ばして私を捕らえ大水から私を引き上げられました。

17,主は力ある敵から私を救い出されました。私を憎む者どもからも。彼らが私より強かったからです。

18,私のわざわいの日に彼らは立ちはだかりました。けれども主は私の支えとなられました。

19,主は私を広いところに導き出し私を助け出してくださいました。主が私を喜びとされたからです。



僕らは人の知恵や力によって危険を回避しようとします。自動車の衝突回避システムも素晴らしいし、人間関係のハウツーを教えてくれる本とか先生も素晴らしいし感謝なことです。でも、それらを超えて、自然さえも動かして守り救ってくださるのは神様だけです。「私は苦しみの中で主を呼び求めわが神に叫び求めた」(6)とあります。その叫びは届き、救われます。神様だけが人の知恵も力も、自然界も、全てを動かし救ってくださる唯一の方です。栄光と賛美を受けるのは神様だけです。


今日もまず、主が良くしてくださった一つ一つを神様に感謝しましょう。口に出して賛美と栄光を主にささげましょう。そして、今日もあらゆる敵から守ってくださいます。神様は僕らを喜んでくださっています。僕らは神様の子どもです。苦しみや忍耐も神様から見れば良いことです。ダビデは神様に喜ばれていました。僕らも喜ばれています。「主は私を広いところに導き出し私を助け出してくださいました。主が私を喜びとされたからです。」(19)


今日も一つ一つを主に報告し、より頼んで生きましょう。「主はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神。わが盾 わが救いの角 わがやぐら。ほめたたえられる方。」(2-3)ハレルヤ!

詩篇17.6-15

 詩篇17.6-15


うちのネコ、たまに僕のひざに乗ってくつろぎます。その毛はふわふわで、お腹は暖かくて、その下はまるで平安に包まれた天国?のようです。子猫がお母さんの下にすっぽり包まれているのを見ると、きっとド安心、ド平安なんだろうな、って想像します。周りがどんなに喧騒に満ちていても、そこは安心に満ちています。


同じように、僕らにとっての安心安全は神様と一緒にいることです。神様を呼び求め、神様のもとに身を避け、悩みや心配を神様に訴えます。その時に神様は「耳を傾けて」聞いてくださいます。(6)そして、神様の力で僕らが思う以上の保護と安心を与えてくださいます。まるで「瞳のように」「御翼の陰」のようだと聖書はいいます。(8)神様の翼の下にすっぽりと包まれることはネコのお腹の下の比ではありません。祈りは聞かれます。「聞いてくれないかも…」ではなく、その祈りは実現する祈りです。



(6-9)

6,神よ私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。私に耳を傾けて私のことばを聞いてください。

7,あなたの右の手で奇しい恵みをお示しください。向かい立つ者どもから身を避ける者を救う方。

8,瞳のように私を守り御翼の陰にかくまってください。

9,私を襲う悪しき者から私を取り巻く貪欲な敵から。*



敵はいます。いろんな敵がいます。実際に中傷し攻撃しいじめてくる人もいるだろうし、病気や貧困やあらゆるトラブルで攻撃されたり、逆に肉欲や高ぶりを刺激して家庭や家計を狂わせようとする攻撃もあります。殺されることもあるし、殺人させようとする攻撃もあります。全てに共通していることは、「地上のことしか考えさせなくする」攻撃です。僕らを「地に投げ倒そう」とします。(11)全て「地上のいのち」しか見えない人たちからの攻撃です。(14)しかも、その攻撃は飢えたライオンのようです。(12)



(11-14)

11,彼らは私たちの跡をつけ今取り囲み目を据えて地に投げ倒そうとしています。

12,それはまるでかみ裂くことに飢えた獅子待ち伏せしている若い獅子のようです。

13,主よ立ち上がり彼の前に進み行き打ちのめしてください。あなたの剣で悪しき者から私のたましいを助け出してください。

14,主よ御手をもって人々から相続分が地上のいのちであるこの世の人々から私のたましいを助け出してください。あなたの蓄えで彼らの腹は満たされ子たちは満ち足りその余りをさらにその幼子らに残します。



僕らが見つめるべきは地上のいのちではなく、天の神様と一緒にいることと、しかも予想を超えた与えられる相続の約束です。誰がどんなに悪口を言ってきても、イエス様は僕らを「義」と認めてくださっています。どんなに貧しくても、トラブル続きでも、死んでも大丈夫です。必ず目覚め、その時に僕らは神様に似た姿に変えられ、満足と喜びに満ちます。どんな大富豪よりスゴい身分がもう約束されています。



(15)

15,しかし私は義のうちに御顔を仰ぎ見目覚めるとき御姿に満ち足りるでしょう。



今日も神様と一緒にいることを求め、天にあるものを求めましょう。敵は地上のことだけで脅し攻撃してきます。神様と一緒にいることは地上にいながら天からの安心感と希望に包まれることです。イエス様を信じる人は罪に定められることはありません。(ローマ8.1)僕らには栄光が用意されています。(ローマ8.18)目覚める時、神様とお会いする時の喜びと満足は地上のどんな喜びよりも大きいです。(15)地上にいながらそれは始まっています。今日も上にあるものを求めましょう。敵を見て不安になるのでなく、聖霊が与えてくださる希望と喜びが僕らを満たしますように。ハレルヤ!



(コロサイ3.1-2)

1こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。

2023年6月25日日曜日

コロサイ3.16 地上から天上へ ユース集会メッセージ

 コロサイ3.16 地上から天上へ ユース集会6/25メッセージ


感謝できないのが僕らです。なんでもクレームをつけるのが人間です。コンビニで、温かい飲み物と冷たい飲み物を同じ袋に入れただけで、不満。おはようって声かけたのに、こっち向いてくれなかったのが不満です。聞こえてなかったのか、あえて無視されたのかわかりません。気に入らないことや不安なこと不満なことが無限に出てくるのが罪のある人間の姿。

そのまま教会に集まると、賛美とか礼拝の中にも文句が出てきます。この曲は嫌いとか、ピアノの弾き方がうるさいとか、祈りが長すぎる、とか。説教が退屈だとか、どんなことでもでも、文句になる。これが僕らの肉の姿、罪人の姿です。


反対に、なんでも感謝できる世界があります。なんでも喜べる。欠点があってもゆるせる、愛せる、そういう世界があります。これは神様のの御国です。神様の完璧なご支配、王国です。地上にはないけど、やがてもう一度イエス様が地上に来られ、全てを裁き、全ては新しくされ、不安も不満も消え去る世界。そして、先駆けとして、イエス様を信じた人たちには天の御国がすでにきている。イエス様は天の御国はあなた方の中にあるのです、とおっしゃいました。


これは、イエス様を信じて、イエス様と一緒にいて、イエス様から与えられる御霊に満たされた人の姿。天の御国の現れです。これはクリスチャンだけの特権です。ひどい状況なのに、感謝が目に付木、欠点だらけなのに、良いところが目につき、悪いことされてもゆるそうと思います。なんででしょうか?それは自分もゆるされているからです。そのように喜びや感謝をいつも発見してしまうのは聖霊の働き。


天の国、神様の住まいには感謝と喜びしかありません。悲しみや怒りや叫びはありません。

地上にいながら、この天と交わってるのが僕らです。

こんなに文句ある状況なはずなのに、天と繋がってるからそれでも感謝し賛美します。

天にあるものをを思いなさい、それを求めなさい、というのが3章1-2節です。


3章

1,こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。

2,上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。



上にあるもの。それは感謝と喜びに満ちている世界です。では地にあるものって何でしょう。さっきも言ったけど、聖書はこう続きます。



5,ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。



8,しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。

9,互いに偽りを言ってはいけません。



いろんな例えがあるんだけど、一つは、これは着替えのようです。と聖書に書いてあります。

地上の服はきったない臭い服で、天の服は新しい美しい服のようです。地上にいながら天の服を着たようです。もうすでに僕らは着替えました。



9,あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、

10,新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。



新しい服とは、新しい人格。新しい人です。これはキリストと一緒に生きる、という新しい服です。

臭くて汚い、世界に生きているけど、美しい服、キリストという新しい服を着ている。その服は完璧で、新しくされ続けます。

しかも、内側まで美ししてくださる服で、心を変えてくれる服です。


新しい人格、新しい性格、新しい心は、古くならない服のようです。もっと新しく、美しくなっていきます。「造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。」


新しくされ続ける神さま方法があります。それは神様の言葉、キリストの言葉が自分の中に住んで、キリストの言葉、キリストの心が自分の心、自分の考えとなっていくことです。美しく変えられ、神様に似ていく方法を神様は与えてくれました。

その方法。それはなんでしょう。


正解は、16節


16,キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。



答えは、「詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」歌うことです。しかも、神さまが与えてくださった詩と賛美と霊の歌で、です。解釈は諸説あって、詩篇、聖書の歌、御霊によって作られた新しい賛美ではないか、などなどいろんな解釈があるんだけど、文脈から間違いないのは教会の歌によって歌によってキリストの言葉が住み、歌によって、互いに教え合い、神様に向かって感謝することです。歌によって、教会全体が新しい心に変えられ、神様の形に新しくされていきます。



1 神に向かって。


感謝の歌は神様に捧げるものです。人に聞かせるものではありません。これは基本です。

神様を愛し、神様を讃えます。これは天の世界です。「感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」感謝のあるところに文句がありません。不満もありません。感謝と不満は両立できません。感謝と不安も両立できません。



※人を励ますと疲れが取れる、って話を聞いて、本当にそうだと思いました。

また、人にプレゼントすると、プレゼントもらった人よりあげた人の方が喜んでいる時もあります。人を励まし、愛する言葉を使うとそれを受ける人以上に、それを発する人に喜びと癒しがあります。もちろん、言葉とかプレゼントとか苦手な人もいる。言葉恥ずかしい、とか、プレゼントあげるのは慣れてない、という人もいますが、でも、ハードルを超えて誰かにプレゼントしたり、励ましや愛の言葉を使うときに、喜びがあります。受けるより与える方が幸いです。


結婚式の親への感謝の手紙はみんな感動します。あれだけ文句あったはずなのに、感謝を表すことは親も嬉しいけど、本人も癒されます。それを聞いている人も癒します。親も嬉しいけど、本人にとって良いことしかありません。聞いている人たちにも喜びと感謝が溢れます。


聖書は受けるより与える方が幸いといいます。礼拝とは、受けるものではなく、与えるものです。神様に捧げるものです。賛美は受けるのではなく捧げるものです。言葉を使って、歌を使って神様を愛し感謝する、天と繋がる癒しと平和に満ちた世界です。


よく読むと、「感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」とあります。口先とか、心がないのにカタチだけはダメです。ああ、めんどくさいな、という口先だけの賛美はだめです。癒しはないし、喜びもない。聞く人も辛いです。偽善です。また、人に聞かせよう、私の歌うまいでしょう、今日はうまくいかなかった、とか、音程がどうだった、とか、人に注目するのでなく、神に向かって、です。自分アピールの祈りとか、自分アピールの賛美リードとか、そういうはダメです。「感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」そこでは歌のうまさとか関係ありません。


※子どもが小さかったとき。「パパありがとう」「誕生日おめでとう」と歌ってくれました。

その時には問題なのは、音程ではないし、リズムがあってるかどうかではありません。心からそう言ってることが嬉しかったです。もし、子供なのに気を遣って、お父さんに歌ってあげなきゃ、とか思っていたらそれは悲しいし痛いことです。めんどくさいな、と思ってるのもかわいそうです。でも、感謝を持って心から歌ってくれるならそれは僕にとって喜びです。子どもたちにとっても喜びです。


2 人に向かって



もう一つ、賛美の歌は、聞いてる人たちにも教え、忠告する、そして新しくする面があります。

さっき、結婚式の親への手紙の話をしましたが、聞く人たちは、みんなこういう素晴らしい親だったんだ、と思うし、何より、その子が感謝しているのを聞いて、一緒に喜びます。

同じように、教会の歌は、神様への感謝であると同時に、神様の素晴らしさを教えてくれる、ツールです。キリストの言葉を豊かに住まわせてくれる、キリストの心が私たちの心になるために、歌を用いて、互いに教え、互いに戒め、天に心を向けさせ、僕らを新しく美しく成長させる歌です。これは神様の方法で「歌を用いて、キリストの言葉を豊かに住まわせ」という訳になってないけど、

ちなみに、同じ表現はエペソ5.19にもあります。歌は教え、語り合うためでもあります。


19,詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。



歌はそれを聞く人も、神様って素晴らしな、って知るツールです。キリストの言葉を豊かに住まわせてくれます。

賛美の歌は、神様への感謝だけど、同時に僕らが歌で教えられ、忠告され、変えられ、成長する方法でもあります。歌によって、こんなに神様が素晴らしい、こんなに愛してくださった、だのに、自分は感謝がなかった、自分は文句ばかりだった、そういう悔い改めも歌によって与えられます。賛美しながら、神様、ごめんなさい、と思う時もよくあることです。賛美の中で、悔い改めの涙が、悔い改めの祈りが出てくることがよくあります。賛美は僕らを造り替えます。


16,キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。


復習ですが、3章は天にあるものを求めなさい、という話でした。

天には何の不満も文句もないし、神様への感謝と喜びと赦しに満ちた世界です。

賛美は天と地をつなげてくれます。

黙示録を読むと、天では無数の天使たちが主を賛美していることがわかります。


黙示録5章


11,また私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。

12,彼らは大声で言った。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」


天国で賛美を受ける方は「屠られた子羊」です。殺された子羊。旧約聖書の時代、罪を犯した人の代わりに羊を殺して神様に許しを願っていました。礼拝する人は、目の前で羊が血を流し、動かなくなって死んでいくのを見ました。この羊によって自分は赦された、と思いました。

そのように、殺される羊のように、苦しんで死んでいったのが、イエス様です。この羊によって、血を流して貼り付けになって死んでいくイエス様を見て、自分は赦された、と知ります。天国でも、賛美されているのは、素晴らしい無敵の主、ではなく、弱くて殺されたとみられる子羊、イエス様です。

このイエス様への感謝が、天でも捧げられています。天の礼拝ではイエス様!と言わず、いつも子羊、しかも、屠られた子羊と言われてます。


賛美の歌は、天の礼拝と地上をつなげるものです。僕らが悔い改め、新しくされつづける、神様の方法です。

賛美は感謝、祈りであると同時に、僕らをキリストの言葉で満たし、悔い改めさせ、あたしく変え続けてくれる方法です。聞く人たちにも良いものをもたらします。もっとも素晴らしい神様への捧げものです。

賛美は最強。感謝は最強です。心からの感謝と賛美のあるところには不満は共存できません!感謝しましょう。賛美しましょう。ハレルヤ!






2023年6月22日木曜日

ヨシュア22.1-9

 ヨシュア22.1-9


自分さえ良ければいい、と思いがちなのが僕らの本性です。自分の生活が優先で神様に対しても、他の人に対しても余った時間、余った体力、余ったお金の中だけで対応しようと思います。ところがイエス様の真逆です。自分を捨てて神様に従い、隣人のために命も捨てて愛するお方です。

神様がイスラエルに祝福された土地を与えてくださるプロセスとして、主と共に労苦して戦う必要がありました。先に良い土地を与えられた部族であっても、ラクをすることは許されませんでした。最後の部族が神様から土地を与えられるまで、一緒に労苦し戦うように神様はモーセを通して命令します。むしろ、先に与えられた部族こそ先頭に立って進み、戦うようにです。神様の命令は「兄弟たちより先に渡って行って、彼らを助けなければならない。」です。(1.14)



(ヨシュア1.14)

あなたがたの妻子たちと家畜は、モーセがあなたがたに与えた、このヨルダンの川向こうにとどまりなさい。しかし、あなたがた勇士はみな、隊列を組み、あなたがたの兄弟たちより先に渡って行って、彼らを助けなければならない。 



先に土地を与えられたルベン人、ガド人、マナセの半部族は自分らの生活よりも兄弟たちと一緒に戦うことを優先し、彼らを愛し助けました。しかも「長い間」です。(3) 彼らが最後まで神様に従い通したことをヨシュアは祝福します。



(1-4)

1 そのとき、ヨシュアはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族を呼び寄せて、 

2 彼らに言った。「あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに命じたことをことごとく守り、私があなたがたに命じたすべてのことについても、私の声に聞き従った。 

3 今日まで、この長い間あなたがたの兄弟たちを捨てず、あなたがたの神、主の命令に対する務めを果たしてきた。 

4 今あなたがたの神、主は、約束したとおりに、あなたがたの兄弟たちに安息を与えられた。今、主のしもべモーセがヨルダンの川向こうであなたがたに与えた、自分たちの所有地、自分たちの天幕に引き返しなさい。 



ルベン人、ガド人、マナセの半部族が自分たちの土地に帰る時も、ヨシュアは念を押して言います。これからも神様の命令に従うことです。それは自分を捨て神様を愛することです。神様を愛することは仲間を愛することに繋がります。



(5-9)

5 ただ、主のしもべモーセがあなたがたに命じた命令と律法をよく守り行い、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守り、主にすがり、心を尽くし、いのちを尽くして主に仕えなさい。」 

6 ヨシュアが彼らを祝福し、送り出したので、彼らは自分たちの天幕に行った。 

7 マナセの半部族にはモーセがバシャンに所有地を与えたが、残りの半部族には、ヨシュアがヨルダン川の反対側、すなわち西の方に、彼らの兄弟たちと並んで所有地を与えた。ヨシュアは彼らを天幕に送り出すとき、彼らを祝福して、 

8 こう言った。「あなたがたは多くの財、つまり、非常に多くの家畜と銀、金、青銅、鉄、たくさんの衣服を持って天幕に帰りなさい。敵からの分捕り物はあなたがたの兄弟たちと分け合いなさい。」 

9 ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるシロでイスラエルの子らと別れ、モーセを通して示された主の命により、彼らが得た自分の所有地、すなわちギルアデの地へ帰って行った。 



聖書は「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」と警告します。(ピリピ2.21)自分を捨てて兄弟を愛し抜くのはイエス様ご自身です。そしてイエス様の御霊が僕らもそうさせてくださいます。もしも僕らが力や時間やお金を多く与えられているなら、それは貧しい人と分け合うためです。聖書は言います。「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒20.35)イヤなことがあるとすぐにその人から離れ、ラクをしたいのが僕らです。でも、神様は一緒に最後まで忍耐し、「兄弟たちを捨てず、あなたがたの神、主の命令に対する務めを」果たすようにと言われます。(3)今日も困っている人と一緒に困りましょう。貧しい人、労苦している人と一緒に労苦しましょう。兄弟を捨てず、一緒に忍耐しましょう。愛は忍耐です。(1コリ13.7)イエス様がそのようなお方です。ハレルヤ!