2023年12月31日日曜日

佐藤薫さん葬儀メッセージ いつまでも残るもの 2コリント12.12-13

 佐藤薫さん葬儀メッセージ


●手放すもの、無くならないもの


祝宴の家に行くよりも、喪中の家に行く方が良い、と聖書は言います。なぜなら、そこには私たち全ての人がやがて経験する終わりがそこにあるからです。私たちが生きてるうちに人生の終わりに心を留めるようになる、と聖書はいいます。(伝道者の書7章2節)


私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。(テモテ手紙第一6章7節)


世界一の信仰者であるヨブという人の言葉が聖書に書かれています。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1.21)


私たちには神様が与えてくださった良いものがたくさんあります。友人も、家族も、仕事も趣味も、お金も、健康も命もです。ですが、それら全部はいつか手放しお別れする時が来ます。

でも、神様は私たちを絶望させようとしているのではなく、本当に大切なことに目を向けるようにさせておられます。死ぬことは闇に落とされることではなく、用意されている永遠のいのちに飲み込まれていくことです。死ぬことはぼんやりと信じていた天国の希望とか永遠の命が現実のものとなっていくことです。

いつまでも残るものがあると聖書はいいます。


コリント人への手紙第一12章 12節から13節

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。


いつまでも残る信仰とは信じることです。ぼんやり信じていたことが確かなことなり、ぼんやりと希望を持っていたことが現実のものとなります。私たちは何を信じるのか、何に希望を持つのか、と言うと、神様が私を愛し受け入れてくださっていることです。「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」


それは無くならないどころか、死ぬことを通して完全に知ることができます。


地上で私たちは神様を信じ、神様に希望を持っています。そして、この地上を去る時に、私たちははっきりと顔と顔を合わせて神様とお会いすると言います。ぼんやりと信じていた希望や愛が確かなものとなります。これはなくなることがありません。


●愛とはイエス様の犠牲


確かなことで一番大切で優れていることは、愛です。と聖書に書かれています。

聖書が伝える愛とは、神様が私を愛している、という愛です。この世の全てとお別れしても、神様の愛はなくなりません。無くならないどころか、神様とお会いする時にそれは確かだったことが明らかになります。愛の神様とお別れする事はありません。


神様の愛とは、ほんわかした甘いものではなく、命がけの愛、神様の側で犠牲を払って与え続けてくださる愛です。


※妻の入院先にあった十字架の像

20年位前にうちの妻が病院に天使病院に入院したことがありました。当時の天使病院はキリスト教で、全ての病室に十字架ではりつけになっているキリストの像が掲げられていました。


入院しているうち、隣の奥さんが言いました。ねぇ。遠藤さん、キリスト教なんでしょう。あの人さぁ、なんで貼り付けになってんの?


妻は言ったそうです。

あの人はイエス様で、私たち人間にはみんな罪があって、心の中で人を嫌だと思って嫌ったり、妬んだり、傷つけたりしたりしていて、神の裁きと呪いを受けなければならないだけども、その身代わりに神様から捨てられ、呪われるために、天から地上に来てくださった方だよ。私も神様から見れば裁かれなければならないけども、でも、イエス様が私のために神様に裁かれ、呪われる役目をしてくださった、だからもうあなたは神様に裁かれないし、呪われないんだよ。


これがこれが聖書が伝えている愛です。命を捨てて、全てを捨ててくださる愛です。これは決してなくなることがない愛です。神様があなたを愛し、受け入れている、という愛のしるしです。


薫さんの証の作文の中にこうありました。

「分かち合いと祈りにも出るようになり イエス、キリストの十字架が私の罪のためにあることを信じてから、父である神様とイエスキリスト様が以前より、ぐーんと近く感じるようになりました」


神の怒りはなだめられる必要があります。


ヨハネの手紙第一4章9節から10節

神はそのひとり子(イエスキリスト)を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子(イエスキリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。


キリストが犠牲になり、私たちは赦されています。キリストは全てを捨てて、ご自分の命を捨てて愛してくださいました。そして復活して今も生きておられます。この愛はなくなる事はありません。私たちが死ぬとき、地上で大切だった人や物とお別れしても、この神様の愛から離れることはありません。


このイエスキリストの犠牲という愛を通して、私たちは天国に行くことができます


●イエス様の愛は天国への道


また、薫さんの証の先ほどの続きにこうありました。


「天国への道は、イエスキリストを通して直接つながっていて、その道は彼を通してのみ存在する」と書いてあるのを読み 頭がクラクラして 目からウロコが落ちるとはこの事だと、感じました。


薫さんが言っているように、天国への道はイエス様を通してつながります。イエス様が私たちを愛し、薫さんを愛し、ご自分を犠牲にしてくださったことが天国への道です。イエス様はわたしが道そのものだとおっしゃいました。


ヨハネの福音書14章6節

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。


イエス様を通してでなければ誰も父(神様)のもとに行く事はできません、とおっしゃいました。天国に行くためにはイエスキリストの愛を受け、それを信じる必要があります。薫さんはイエス様を信じて神様のもとに召されました。


薫さんも後悔することや謝りたいことはあったと思います。聖書は、すべての人に罪があると言います。天国は聖なる国であって、罪や汚れがあるままでは行くことができません。それでもイエス様は罪のある私たちを愛し、身代わりに神の怒りと裁きを受けて、その呪いを終えてくださいました。


イエス様だけが薫さんを完全にきよめ、天国に迎えてくださる方です。イエス様はおっしゃいました。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」


どんな人も愛されています。どんな人もきよめられて神様の御もとに行くことができます。その道はイエス様です。この方を信じることです。


この肉体を離れて神のみ下にいる方が良いと聖書は教えています。私たちは希望を持ちながら薫さんとお別れしたいと思います。この希望は薫さんだけに与えられているのではなくて、残された私たちに、全ての人に、ご家族に与えられている希望です。私たちも、皆さんも愛されています。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。でも、神様に愛されていることだけは確かです。それはなくならないどころか、死を通して確かなものとなっていきます。


この愛と希望は今日ここにおられる全ての人に注がれています。別れは悲しいですが、その先にある希望と愛は確かです。

ぜひ、薫さんが「私はイエスキリスト様を信じます」と神様に祈ったように、私たちも、イエスキリストの愛を信じます、この希望を信じます、と祈りましょう。


「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」


詩篇36篇

 詩篇36篇


ヒナを飼っている友人の姿は喜びと愛に満ちていて感動的です。お金をかけてヒナが快適に過ごせるように機材を買い、一定の温度が保ち光の調節までしています。話しかけながら餌を液状にして少しずつ少しずつ食べさせる姿は、まさに目に入れても痛くないかのようです。いつも気にかけ、目をかけ、手をかけています。ヒナは安心・安全です。同じように、それ以上に、神様は親鳥がヒナを翼の下で温め守るかのように僕らを守り、温かで安全な場所に居させてくださいます。



(7-9節)

7,神よあなたの恵みはなんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。

8,彼らはあなたの家の豊かさに満たされ あなたは楽しみの流れで潤してくださいます。

9,いのちの泉はあなたとともにあり あなたの光のうちに私たちは光を見るからです。



神様のみもとにいることは安全で、豊かさが溢れ、楽しみと喜びがあり、いのちがあり、光がある世界です。

ところが、悪魔はそれとは正反対です。翼の下から出て、高ぶって自分の考え、自分の判断、自分の計画で生きるように誘います。神様に頼らなくても、恐れなくても生きていけるように思わせますが、その先には立ち上がれないほどの挫折と絶望が待っています。



(1-4節)

1,私の心の奥にまで悪しき者の背きのことばが届く。彼の目の前には神に対する恐れがない。

2,彼は自分の判断で自分を偽り自分の咎を見つけてそれを憎む。

3,彼の口のことばは不法と欺き。思慮深くあろうともせず善を行おうともしない。

4,彼は寝床で不法を謀り良くない道に堅く立ち悪を捨てようとしない。



11節から12節)

11,高ぶりの足が私に追いつかず悪しき者の手が私を追いやることのないように。

12,そこでは不法を行う者は倒れ突き倒されて立ち上がれません。



どこにいても、何をしていても僕らは神様の愛と、平安と、喜びといのちの光の中にいます。神様の愛と配慮は僕らが思う以上で、しかも尽きることがありません。「主よ あなたの恵みは天にあり あなたの真実は雲にまで及びます。」(5)そこから一人で出てわざわざ倒れる必要はありません。今日も明日も神様の愛と配慮と喜びの翼の下にいましょう。今日も神様は気にかけ、目をかけ、手をかけてくださっています。ハレルヤ!



2023年12月28日木曜日

詩篇33篇

 詩篇33篇


賛美することは「主を」を喜ぶことです。賛美は「主に」感謝して歌うことです。「人に」ではなく、「人を」喜ぶのでもなく、「いい感じのサウンドやアレンジを」喜ぶことでも「歌を」楽しむことでもありません。賛美することはまっすぐで単純なことです。「賛美は直ぐな人たちにふさわしい。」と聖書は言います。(1)



(1節から3節)

1,正しい者たち主を喜び歌え。賛美は直ぐな人たちにふさわしい。

2,竪琴に合わせて主に感謝せよ。十弦の琴に合わせてほめ歌を歌え。

3,新しい歌を主に歌え。喜びの叫びとともに巧みに弦をかき鳴らせ。



楽器をかき鳴らして叫ぶように聖書は言います。が、それは音楽の盛り上がりのためではありません。まっすぐに、単純に神様を喜び、神様に感謝するための楽器です。生きていること全てが神様に依存し、神様から与えられているものです。力も命も知恵も全てです。賛美の中での喜びの叫びは主とのシンプルな交わりです。この世界の全ては神様の愛と恵み、そして神様のことばの権威で満ちています。



(4節から7節)

4,まことに主のことばは真っ直ぐでそのみわざはことごとく真実である。

5,主は正義と公正を愛される。主の恵みで地は満ちている。

6,主のことばによって天は造られた。天の万象もすべて御口の息吹によって。

7,主は海の水をせき止めて集め湧き出る水を倉に納められる。



人間は神様よりも人間の力や技術やお金を信じ、しがみつきたがります。不安を神様以外で満たそうとします。人が作り出した歌のうまさ、技術、お金を信頼しがちです。リチャード・J・フォスターは「スピリチュアリティ成長への道」の6章の中で次のように言っています。


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被造物へのより深い価値評価の目を養いなさい。地球にもっと近づきなさい。できるだけ歩きなさい。「世界が作られた時から、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に表れており、これを通して神を知ることができます」と使徒パウロが言うとおりである。(ローマ1:20)小鳥の声に耳を傾けよ。彼らも神を表しているのである。草花や木の手触りを楽しもう。いたるところに溢れている豊かな色彩は驚くばかりである。単純さとは、地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは主のものであることを発見することである。(詩篇24:1)

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今日もまっすぐに神様に目を向けましょう。今日もただ神様だけを喜び、感謝し、神様だけに歌いましょう。人間の力で救われるのではありません。僕らは問題を複雑に考えすぎるようです。「賛美は直ぐな人たちにふさわしい。」ものです。ハレルヤ!



(16節から22節)

16,王は軍勢の大きさでは救われない。勇者は力の大きさでは救い出されない。

17,軍馬も勝利の頼みにはならず軍勢の大きさも救いにはならない。

18,見よ主の目は主を恐れる者に注がれる。主の恵みを待ち望む者に。

19,彼らのたましいを死から救い出し飢饉のときにも彼らを生かし続けるために。

20,私たちのたましいは主を待ち望む。主は私たちの助け私たちの盾。

21,まことに私たちの心は主を喜び私たちは聖なる御名に拠り頼む。

22,主よあなたの恵みが私たちの上にありますように。私たちがあなたを待ち望むときに。



2023年12月27日水曜日

詩篇32篇

詩篇32篇 

疲れの原因を聖書は教えてくれています。それは「自分の罪を神様にちゃんと告白していないこと」です。



(3節から5節)

3,私が黙っていたとき私の骨は疲れきり私は一日中うめきました

4,昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。セラ

5,私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。セラ



僕らが思う以上に、聖書は喜びなさい、楽しみなさいと繰り返します。神様の願いは僕らが疲れて沈むことではありません。自分の蒔いた種で苦しみ続けることよりも、神様がくださる回復を信じて喜び楽しむことが神様の願いです。う誰もあなたを責めていません。正しい者たち 主を喜び楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ 喜びの声をあげよ。」(11)です。


一方、悪魔は告発者として罪をほじくり返して責めるのが大好物です。日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」です。(黙示録12.10)悪魔のことばに耳を傾け、一緒になって自分を責め、他人を責めている人は疲れている人です。酒を飲んで悪口、恨み、妬み、愚痴を言っても疲れは取れません。


反対に神様のことばに耳を傾け、罪を告白するは疲労が回復します。僕らが思う以上に救いの歓声がもう与えられています。天の大軍勢の賛美の歌声が僕らを取り囲んでいます。僕らを責める言葉はかき消されます。



(1-2節)

1,幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。

2,幸いなことよ主が咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は


(6節から7節)

6,それゆえ敬虔な人はみな祈ります。あなたに向かってあなたがおられるうちに。大水は濁流となっても彼のところに届きません。

7,あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り救いの歓声で私を囲んでくださいます。セラ



僕らは罪を認めたくないものです。でも実際には毎日罪が出ています。自分からも出るし、他人の罪ゆえに傷つけられもします。罪はないと言う人は嘘つきです。そして罪を告白してない人は疲れている人です。



1ヨハネ 1:8-9)

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。



年末年始、この世の楽しみで癒されるのではなくて、神様との正直な交わりで癒されましょう。思うよりずっと喜び、楽しみ、感謝、自由が用意されています。ハレルヤ!

2023年12月26日火曜日

詩篇31篇

 詩篇31篇


イエス様は神様との秘密の交わりのために、しばしば誰もいないところに出かけました。(マルコ1.35など)ヒゼキヤという王は、絶対に勝てない敵国に包囲され滅ぼされるのは必至という時に、神様の前に行きました。(2列王19章など)使徒パウロは人間に相談するよりも先に、まず神様と相談しています。(ガラテヤ1.16-17)ペテロも何よりもまず、「祈りのために身を慎みなさい」と言います。(1ペテロ4.7)イエス様は心配事でイライラしているマルタに対して、「必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。」とおっしゃいました。イエス様のただ座ってイエス様と対話していました。(ルカ10.42)神様のところに行くことは絶対に安全な砦です。以下の祈りは、完全に実現する祈りです



(1節から4節)

1,主よ私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。あなたの義によって私を助け出してください。

2,私に耳を傾け急いで私を救い出してください。私の力の岩となり強い砦となって救ってください。

3,あなたこそ私の巌私の砦。あなたの御名のゆえに私を導き私を伴ってください。

4,あなたは私を狙って隠された網から私を引き出してくださいます。あなたは私の力です。



問題に対応する力も気力もなくなる時が来ます。残された力は、神様の前に行くことだけに使うのが正解です。その時に神様がすべての敵から、すべての恐れから、すべての問題から救い出してくださいます。神様のところに行って、自分の苦しみを告白し助けを求めることです。



(9節から10節)

9,私をあわれんでください。主よ。私は苦しんでいるのです。私の目は苦悶で衰え果てました。私のたましいも私のからだも。

10,悲しみのうちに私のいのちは尽き嘆きのうちに私の年は果てました。私の咎によって私の力は弱まり私の骨は衰えてしまいました。



神様のところに行って、どんなに苦しいのか、何をされたのか、どんなにひどいことを言われたのか、どんな態度をされたのか、何が恐怖なのか、具体的に神様に言います。苦しみを「話す」ことは「離す」ことです。



(11節から18節まで)

11,敵対するすべての者から私はそしられました。わけても私の隣人から。知り合いには恐れられ外で私を見る者は私を避けて離れ去ります。

12,死人のように私は人の心から忘れられ壊れた器のようになりました。

13,私は多くの者がささやくうわさを聞きました。「恐怖が取り囲んでいる」と。彼らは私に対して謀議をめぐらし私のいのちを取ろうと図りました。

14,しかし主よ私はあなたに信頼します。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」

15,私の時は御手の中にあります。私を救い出してください。敵の手から追い迫る者の手から。

16,御顔をしもべの上に照り輝かせてください。あなたの恵みによって私をお救いください。

17,主よ私が恥を見ないようにしてください。私はあなたを呼び求めていますから。悪しき者どもを辱めてください。彼らが黙ってよみへと下るように。

18,偽りの唇を封じてください。それは正しい者に横柄に語っています。高ぶりと蔑みをもって。



苦しみは主に委ね手放します。次に大事なことは、神様が自分を守ってくださることを宣言することです。神様の完璧な守りと愛を宣言することは僕らの信仰です。神様だけは、僕たちを見放すことも見捨てることもありません。神様の愛という要塞の中で守ってくださり、恵みと赦しを与え回復させてくださる方です。たとえこの体が死んでも大丈夫です。神様の御手の中で必ず栄光への復活が約束されています。



(19節から24節)

19,なんと大きいのでしょう。あなたのいつくしみは。あなたを恐れる者のためにあなたはそれを蓄えあなたに身を避ける者のために人の子らの目の前でそれを備えられました。

20,あなたは彼らを人のそしりから御顔の前にひそかにかくまい舌の争いから隠れ場に隠されます。

21,主はほむべきかな。主は堅固な城壁の町の中で私に奇しい恵みを施してくださいました。

22,私はうろたえて言いました。「私はあなたの目の前から断たれたのだ」と。しかし私の願いの声をあなたは聞かれました。私があなたに叫び求めたときに。

23,主を愛せよ。すべて主にある敬虔な者たち。主は誠実な者を保たれるが高ぶる者には厳しく報いをされる。

24,雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。



僕たちの問題のほとんどは、実は神様に対する信仰の問題です。神様の愛、救い、回復の約束、それを信じて宣言することが救いです。信じて待ち望むことは、闇の中でも絶対に消えない希望です。死ぬ間際でも希望と喜びを持ちつつ、です。

選択する第一の事は、神様を愛し、信頼して神様のところに行くことです。自分で対応策を考えたり復讐したりする必要がありません。人を裁くこともする必要がありません。すべきことは神様のみことばによって明確になります。あとはそれに従うだけです。神様は絶対に安全なシェルターです。忙しい師走ですが、走るのは後にして、今日も神様のところに行くことを優先しましょう。大丈夫です。ハレルヤ!