2024年5月14日火曜日

出エジプト28.15-43

 出エジプト28.15-43


会社の上司は部下の失敗を責め、部下に責任を取らせます。手柄は自分のもの,

失敗は部下のものです。ところが、神様の祭司は真逆です。人々の祝福のために神様の前に出て祈り、人々の失敗や罪の責任を背負います。イエス様はおっしゃいました。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。(…中略…)あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。」(マルコ10.42-44)祭司は人々の代表として、人々の名前を背負って神様の前に出ます。そして、彼らの失敗の責任は祭司が引き受けます。



(36-38)

36,また、純金の札を作り、その上に印章を彫るように『主の聖なるもの』と彫り、

37,これを青ひもに付け、それをかぶり物に付ける。それがかぶり物の前面にくるようにする。

38,これがアロンの額の上にあって、アロンは、イスラエルの子らが聖別する聖なるもの、彼らのすべての聖なる献上物に関わる咎を負う。これは、彼らが主の前に受け入れられるように、絶えずアロンの額の上になければならない。



イスラエル人たちは「主の聖なるもの」です。その代表として祭司は神様の前に出ます。実際には失敗や汚れがつきものです。それでも彼らが神様に受けいれてもらえるように祈り続けるのが祭司の役目です。これは天国の様子を表しています。(ヘブル8.5)いつもイエス様は僕らの名前を覚えて神様の前に祈ってくださっています。

そして、僕らの失敗や汚れは大祭司であるイエス様がその責任を背負ってくださっています。



(ヘブル7.27)

イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。



(ローマ8.34)

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。



大祭司であるイエス様は僕らを責めるのではなく、身代わりに苦しみ十字架で殺され、今日も彼らの罪をゆるしてくださいと祈ってくださっています。アロンが人々の名前を胸につけ、その責任を背負って神様の前に出たように、です。



(29-30)

29,このようにして、アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの息子たちの名をその胸に担う。それらの名が、絶えず主の前で覚えられるようにするためである。

30,さばきの胸当てにはウリムとトンミムを入れ、アロンが主の前に出るときに、それがアロンの胸の上にあるようにする。アロンは絶えず主の前に、イスラエルの息子たちのさばきを胸に担う。



この世の支配者と、神様が願っている責任者である祭司はまるで性格が違います。人々の失敗を背負い仕えるのがイエス様です。そして僕らにもそのようにしなさいとおっしゃいます。他人の失敗を責めるのでなく、一緒に謝りましょう。

神様の前に周りの人たちの名前を挙げて祈りましょう。他人を支配するのではなく仕える人になりましょう。それこそ神様が願っておられることです。僕らもイエス様と一緒に祭司とされました。(1ペテロ2.9)人々のことを名前を挙げて、今日も赦しと祝福を祈るのが仕事です。


0 件のコメント:

コメントを投稿