2024年6月30日日曜日

1サムエル14.1-30

1サムエル14.1-30


 神様は何度も「恐れてはならない」「心配してはならない」とおっしゃいます。その理由は神様が「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と言ってくださるからです。(ヘブル13.5)だから僕らは確信を持って「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」と言うことができます。ヨナタンはこの確信があるので、恐れることなく敵陣にたった2人だけで乗り込んで行きました。



(6節)

ヨナタンは道具持ちの若者に言った。「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。おそらく、主がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」



反対に、恐れに駆り立て、ビクビクして判断し動くその結果は悲惨です。「コワイから動く」ことは変な行動を生み出します。冷静に考えるならばペリシテ人の方が優勢なのですが、神様は「恐れ」を使って敵を攻撃します。彼らは恐れたゆえに同志打ちを始めて自滅します。



(15節)

そして陣営にも野にも、すべての兵のうちに恐れが起こった。先陣の者、略奪隊さえ恐れおののいた。地は震え、非常な恐れとなった。


(20節)

サウルと、彼とともにいた兵がみな集まって戦場に行くと、そこでは剣をもって同士討ちをしていて、非常に大きな混乱が起こっていた。



反対に、神様が一緒にいてくださり、勝利させてくださる確信は自由と力を生み出します。ビクビクしている人よりも安心している人のパフォーマンスの方が遥かに優れています。今までペリシテ人を恐れてペリシテ人側についていた兵士たちも、怖くて山地に隠れていたすべてのイスラエル人もペリシテ人が逃げたと聞いて、戦いに加わりました。神様が一緒にいてくださり勝利させてくださることは夢とか言い聞かせることではなく、霊的な現実です。



(21-23節)

それまでペリシテ人について、彼らと一緒に陣営に上って来ていたヘブル人も転じて、サウルとヨナタンとともにいるイスラエル人の側につくようになった。

また、エフライムの山地に隠れていたすべてのイスラエル人も、ペリシテ人が逃げたと聞いて、戦いに加わってペリシテ人に追い迫った。

その日、主はイスラエルを救われた。



神様が勝利を与えて下さったのですが、イスラエルの兵士たちはサウル王の言葉を恐れていました。恐れは変な行動を生みます。



(24-26節)

さて、その日、イスラエル人はひどく苦しんでいた。サウルは、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれよ」と言って、兵たちに誓わせていた。それで兵たちはだれも食物を口にしていなかったのであった。

この地はどこでも、森に入って行くと、地面に蜜があった。

兵たちが森に入ると、なんと、蜜が滴っていたが、だれも手に付けて口に入れる者はいなかった。兵たちは誓いを恐れていたのである。



ヨナタンは自由でした。彼が恐れるのはただ一人だけ、神様だけです。僕らもヨナタンと同じように、神様以外を恐れる必要はありません。


(29-30)

29,ヨナタンは言った。「父はこの国を悩ませている。ほら、この蜜を少し口にしたので、私の目は輝いている。

30,もしも今日、兵たちが、自分たちが見つけた敵からの分捕り物を十分食べていたなら、今ごろは、もっと多くのペリシテ人を討ち取っていただろうに。」



イエス様は「真理はあなたがたを自由にします。」とおっしゃいます。(ヨハネ8.32)キリストが一緒にいてくださることの喜びと自由は、このヨナタンのように、主に喜ばれることを確信して行うことができるという自由です。僕らにも同じように自由が与えられています。今日も人を恐れず、状況を恐れず、ただ、神様だけを恐れ、聞き、従いましょう。そこには自由があり、喜びがあり、愛があり、勝利があります。神様は何度も「恐れてはならない」「心配してはならない」とおっしゃいます。その理由は神様が「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と言ってくださるからです。(ヘブル13.5)ハレルヤ!

2024年6月28日金曜日

1サムエル13章

 1サムエル13章


困った時、僕らは慌てて自分なりに考えて判断します。神様を味方につけようとしてあれこれやってみたりします。「神様、こんなに献金したから助けて下さいよ」とか「見て下さいよ、祈ったし、奉仕もしましたよ、助けて下さいよ。」本音は「神様、ちゃんと働いて助けて下さいよ。こっちもこうしたんだから」神様をコントロールしたい気持ちです。神様と自分の上下が逆転しています。神様はお手伝いさんではありません。神様の願いは、僕らが神様のことばを聞き、それを自分の心として神様と一つになっていくことです。



(15章22節)

サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。



サウルは敵に囲まれて困り果てました。兵士たちはどんどん逃げて行きます。(5-8)この時にすべきことは、実はもう預言者サムエルを通して告げられていました。



(10章8節)

私より先にギルガルに下って行きなさい。私も全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げるために、あなたのところへ下って行きます。私があなたのところに着くまで、そこで七日間待たなければなりません。それからあなたがなすべきことを教えます。」



しかし、サムエルは待っても来ません。状況は悪くなるばかりで、兵士たちは怯えて去っていきます。困ったサウルは自分で神様にささげものをささげてお願いしてみよう、と思いました。



(9節から10節)

サウルは、「全焼のささげ物と交わりのいけにえを私のところに持って来なさい」と言った。そして全焼のささげ物を献げた。

彼が全焼のささげ物を献げ終えたとき、なんと、サムエルが来た。サウルは迎えに出て、彼にあいさつした。



自分で良かれと思った判断です。でも、預言者サムエルから言われたこととは違いました。サムエルは、それを厳しく糾弾します。



(13節から14節)

サムエルはサウルに言った。「愚かなことをしたものだ。あなたは、あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。

しかし、今や、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。主があなたに命じられたことを、あなたが守らなかったからだ。」



相手に対して自分が思う「良いこと」をすれば認めてくれる、と思いがちです。でも、それが相手にとって良くはなかったし、違った、というのはよくある話です。同じように神様が求めておられるのは、「ご自分の心にかなう人」(14)です。大事なのは、神様のことばを聞いて、それを自分の心としていくことです。神様とひとつの心になっていくために必要なのは耳です。まず聞くことです。そして、聞いたことを、自分の心にすることです。「耳と心」は愛する方法です。耳と心を神様にささげることは礼拝であり、神様にとっての喜びです。


人間関係も同じです。ドヤ顔で「私はこんなことした」というよりも、相手に耳と心をささげて聞き、相手の心に寄り添っていくことが愛です。王様として一番大事なことは、神様の言葉を聞いてそれを自分の心にしていくことでした。神様を動かそうとしてあれこれ動くよりも、まず聞いて、思い巡らし、それを自分の心にすることです。


状況が悪い時、危機的な時、まずは神様のところに行って聞きましょう。「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(15.22)神様の願いは僕らが神様の心と一つになることです。ハレルヤ!








You rise me up 初めてガラスのピラミッドで

 ガラスのピラミッドの近くに30年近くも住んでいて、初めてそこで演奏してみました。長尾悟さんが撮影してくれて光栄でした。


梅川涼くんのアルバムに参加させてもらえて光栄です!

 梅川涼くんのアルバムに参加させてもらえて光栄です!声もアレンジも素敵です。




1サムエル12章

 1サムエル12章


人の知恵とか政治形態とかが全部悪いわけじゃないけど、もし神様を忘れて人の力で救われようとするならそれは罪だと聖書ははっきり伝えます。僕らは人間の力を求めすぎ、人の言葉を求めすぎのようです。神様に祈り求めもしない解決策は「役にも立たず、救い出すこともできない、空しいもの」とサムエルは断言します。



(21節)

役にも立たず、救い出すこともできない、空しいものを追う道へ外れてはならない。それらは、空しいものだ。



この時、イスラエルは神様に祈りもせずによその国の真似をして力のある王様を求めて言いました。「どうしても、私たちの上には王が必要です。そうすれば私たちもまた、ほかのすべての国民のようになり、王が私たちをさばき、私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」(8.19-20)神様を忘れて、祈りもなしに王様を求めることは罪であり悪であるとサムエルは指摘します。



(12節)

しかし、アンモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王が私たちを治めるのだ』と私に言った。



どんな小さなこともまずは神様に聞き、従うことが優先です。神様にホウレンソウです。先に人を求めるなら間違いであり罪だと聖書は繰り返します。主に祈ることと、世の力や人の知恵を求める事は正反対のように聖書は伝えています。主は祈りに答えてくださる方です。それをハッキリさせるために、サムエルは神様に雨と雷を求めました。しかもこの時期、小麦の刈り入れ時期は雨が降らないそうです。それでも、サムエルは主を求めて祈り求めました。神様により頼むことがどんなに大切なことかを人々に教えるためです。



(16-18節)

16,今、しっかり立って、主があなたがたの目の前で行われる、この大きなみわざを見なさい。

17,今は小麦の刈り入れ時ではないか。主が雷と雨を下されるようにと、私は主を呼び求める。あなたがたは王を求めることで、主の目の前に犯した悪が大きかったことを認めて、心に留めなさい。」

18,そしてサムエルは主を呼び求めた。すると、主はその日、雷と雨を下された。民はみな、主とサムエルを非常に恐れた。



降らない時期であっても主に求めるなら雨を与える神様を体験し、彼らは主を恐れました。主に祈り求めることの大切さを知ると同時に主を後回しにして王を求めてきた罪を知らされました。



(19節から21節)

19,民はみなサムエルに言った。「私たちが死なないように、しもべどものために、あなたの神、主に祈ってください。私たちは、王を求めることによって、私たちのあらゆる罪の上に悪を加えてしまったからです。」

20,サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従う道から外れず、心を尽くして主に仕えなさい。

21,役にも立たず、救い出すこともできない、空しいものを追う道へ外れてはならない。それらは、空しいものだ。



サムエル自身にとっても、祈りを優先するのは何よりも大切な事です。祈らないのは罪です。



(23節から25節)

23,私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とてもできない。私はあなたがたに、良い正しい道を教えよう。

24,ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい。

25,あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。」



僕らは人間の力を求めすぎ、人の言葉を求めすぎのようです。まずは神様に求め、祈り、聞きましょう。祈るのをやめて、主の前に罪あるものとなることなど、とてもできません。

今日も、まず祈りましょう。絶えず祈りましょう。主こそ力ある王様です。ハレルヤ!



(ローマ12:12)絶えず祈りに励みなさい。

(エペソ6:18)すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

(エペソ1:16)あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。

(コロサイ1:9)絶えずあなたがたのために祈り求めています。

(1テサ5:17)絶えず祈りなさい。

(ヘブル13:15)御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。





2024年6月27日木曜日

1サムエル11章

 1サムエル11章


ビビリで弱虫なサウルが、敵がイスラエルを襲うことを聞いたとき、全く別人のようになりました。「神の霊がサウルの上に激しく下った」からです。(6)彼はまるで神様ご自身のように怒り、指導力を発揮し、あっという間に勝利します。



(2節から6節)

2,アンモン人ナハシュは彼らに言った。「次の条件でおまえたちと契約を結ぼう。おまえたち皆の者の右の目をえぐり取ることだ。それをもってイスラエル全体に恥辱を負わせよう。」

3,ヤベシュの長老たちは彼に言った。「イスラエルの国中に使者を遣わすため、七日の猶予を与えてください。もし、私たちを救う者がいなければ、あなたのところに出て行きます。」

4,使者たちはサウルのギブアに来て、これらのことばを民の耳に語った。民はみな、声をあげて泣いた。

5,ちょうどそのとき、サウルが牛を追って畑から帰って来た。サウルは言った。「民が泣いているが、いったい何が起こったのか。」彼らは、ヤベシュの人々のことばを彼に告げた。

6,サウルがこれらのことばを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下った。彼の怒りは激しく燃え上がった。



何も知らずに静かに農作業していたはずのサウルは敵の攻撃を聞いたとき、突然、聖霊に満たされます。彼はそこにいた自分の牛を切り裂き、イスラエル中に送り「サウルとサムエルに従って出て来ない者の牛は、このようにされる」と兵士を緊急招集して33万人を集めて、次の日には勝利します。



(7節から8節)

彼は一くびきの牛を取り、それを切り分け、使者に託してイスラエルの国中に送り、「サウルとサムエルに従って出て来ない者の牛は、このようにされる」と言った。主の恐れが民に下って、彼らは一斉に出て来た。

サウルはベゼクで彼らを数えた。すると、イスラエルの人々は三十万人、ユダの人々は三万人であった。


(11節)

翌日、サウルは兵を三組に分け、夜明けの見張りの時に陣営に突入し、昼までアンモン人を討った。生き残った者は散り散りになり、二人の者がともにいることはなかった。



旧約聖書の時代、神様は特別に王様や祭司などを選び、聖霊で満たし、神様の御心を行わせました。満たされる人は特別な人限定でした。ところが今の時代、なんと僕ら全員に同じ聖霊が与えられています。サウルと同じように、僕らも神様の願いを自分のものとするようになります。これは僕らの力とか努力ではありません。サウルは別人になり、自分でも驚いたと思います。同じように僕らも新しくされます。僕らにも同じようにキリストの御霊が住んでおられます。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2.20)


聖霊に満たされた人には恐れがありません。神様の言葉を語り、神様の御心を行動で表します。「御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」(使徒2.4)「一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」(使徒4.31)「パウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、こう言った。『ああ、あらゆる偽りとあらゆる悪事に満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。』(使徒13.9-10)聖霊に満たされた時には恐れがありません。


しかも、「御霊に満たされなさい。」とは神様の命令です。(エペソ5.18)これは繰り返し、いつも満たされ続けなさい、という命令です。そして同時に受け身です。満たされることを願い求めますが、満たしてくださるのは神様です。自分を明け渡し、御霊に満たされることを求めるならば必ず与えられます。そして僕らは変わります。キレイな水でいっぱいにするには汚水をまず捨てる必要があるのと同じように、まずは自分の思いは捨てちゃいましょう。聖霊は僕らを満たし用いたいと思っておられます。「神の聖霊を悲しませてはいけません。(…中略…)無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。」(エペソ4.30-31)今日も求めましょう。御霊の満たしを求めましょう。僕らの体に聖霊が宿り、この体を宮として、キリストの体の一部として用いていただくことを求めましょう。そこに恐れはありません。神様の御心だけがなります。ハレルヤ!



2024年6月25日火曜日

1サムエル7.1-14 「主にのみ仕えるなら 」 6/23メッセージ

 1サムエル7.1-14 「主にのみ仕えるなら 」 6.23メッセージ


イントロ

今日の箇所は長くペリシテ人に苦しめられていたイスラエルがそこから解放されて勝利した箇所です。皆さんの生活の中に長く苦しんでいることがあると思います。苦しみの原因を簡単にあれが悪いから、あれが原因だから、と言えないけども、でも、苦しみの原因の一つは僕ら人間の罪です。その原因はあなたの罪だ、決めつけないようにと思うけど、でも、罪があるところに苦しみが生まれるのも聖書が伝えることです。最初、罪のなかったエデンの園は「それは非常によかった」とあります。創世記の1章31節です。

そして、将来、やがて与えられる新しい天と地ではやっぱり罪も苦しみもありません。その世界はもはや呪われるものは何もない、とあります。


(黙示録 21:4)

「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」


今2024年、僕らは罪で汚れた世界に生きています。やがてイエス様が来られて回復してくださるのは知っているけど、今はまだ途中です。汚れた世界の中にいながら、イエス様を信じて、赦されました。きよめられました。どんなにひどいことをした人でも、性格が悪くても、神様は「聖なるもの」と呼んで受け入れてくださっています。変えられ途中だけど、完全ではないです。「すでに」と「いまだ」の間です。


今日の箇所はその実例のような箇所です。

サムエルの時代、イスラエルが苦しんでいた原因は罪でした。


サムエルは子供の時から祭司エリに預けられて祭司の家で育ったけど、この当時の祭司の家は腐っていました。祭司とは名ばかりで、エリの子どもたちは礼拝する人たちからその捧げ物を横取りして食べていました。礼拝者が「まず、主にささげてから…」と言うと「なら腕ずくで取る」と言っていた人たちです。また、礼拝し神様に仕える女性たちを誘惑しては体の関係を持っていました。堕落した祭司の家族の中で育ったけど、それでも神様はサムエルに語りかけ、サムエルも神様の言葉を聞くことができました。この時代、国中が偶像礼拝で満ちていました。その時代に心を痛めながら育ったのがサムエルです。


ずっとサムエルは祈ってきました。何年も祈ってきました。ようやくイスラエルが神様を求めるようになり、神様の言葉を聞く耳ができたのがこの時期です。


(2節)イスラエルの全家は主を慕い求めていた。


ようやくこの国に聞く耳ができ、この国が悔い改め、回復し祝福されていった箇所です。

皆さんの人生にも、そしてこの日本にもすごく関係のある箇所です。今日のポイントは4つです。メインは1と2です。


1悔い改めることの祝福

2祈り求めることの祝福

3献身すること祝福

4感謝することの祝福



1悔い改めることの祝福


イスラエルの苦しみの原因は明らかでした。神様を捨てて他を慕う二心ゆえに敵に苦しめられていました。


(士師記 2章13~14節)

彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、

主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪する者の手に渡して略奪されるままにし、周りの敵の手に彼らを売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。


だからサムエルは言いました。


(3)

サムエルはイスラエルの全家に言った。「もしあなたがたが、心のすべてをもって主に立ち返るなら、あなたがたの間から異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。そして心を主に向け、主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出してくださいます。」


悔い改めが救いになる、と伝えるとイスラエル人たちはその通りにしました。彼らは本当に神様に向き直り、神様が嫌い、怒る偶像を捨てました。


(4)

イスラエル人は、バアルやアシュタロテの神々を取り除き、主にのみ仕えた。


祝福されるために必要な最初のステップは悔い改めです。悔い改めてとは方向転換です。方向転換というのは神様の御言葉を聞いて、自分の罪を認めて言い表すことです。そしてその罪を手放すことです。


(6節)

彼らはそこで、「私たちは主の前に罪ある者です」と言った。


※悔い改めと後悔の違い


どうせダメなんだと後悔するのは悔い改めではありません。自分を責めて悲しむだけなら癒しはありません。自分なんていなければいいと思い、死にたくなる人もたくさんいます。


悔い改めには希望があります。悲しみを通るけど、その悲しみは希望に変わり、救いに変わります。赦されます。やり直せます。それが悔い改めです。罪を止めることを神様が喜んでくださり、回復を与えてくださるのが悔い改めです。罪は悲しいけど、それを認めて神様に告白して、捨てること、神様の方に向き直ることです。悔い改めは人を救い、人を生かします。人生はやり直せます。


反対に後悔するだけの人のことばかり考えて攻撃します。ああすればよかった、こうすればよかった。自分が悪い、自分はああだ、こうだ、と。あいつが悪い、こいつが悪い、神様が悪い、と原因ばかり探し、責めて悲しむのが後悔です。そこには希望がありません。回復もありません。聖書はこのことを次のようにまとめています。


(2コリント 7:10)

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。


悔い改める人にとっては神様の言葉は福音です。神様の教えは命です。そこに新しい命があり回復があります。そして神様の大きな栄光と力を見ます。でも、悔い改めない人にとっては、神様の言葉は人を責め、攻撃するだけの嫌な言葉にしか聞こえないでしょう。


希望のある悔い改めは、神様に喜ばれない罪があることを認めて手放していくです。この場合は4節にあるように偶像を持っていたことでした。悔い改めは命をもたらし救いをもたらしまします。


彼らはバアルやアシュタロテに賛美と礼拝を捧げ、救いと癒しを偶像に求め、それを信じて愛していました。それは神様の怒りと妬みと悲しみを招くものでした。

人間でも、伴侶を裏切る人は二人の祝福を壊します。それは妬みと怒りを招き苦しみを生みます。


彼らが悔い改めるまで20年かかりました。その日、突然、急にできたことではありません。苦しみを通して、敵の攻撃に悩み続けて、ようやくその原因がわかりました。


苦しみは僕らが悔い改めに導かれるために与えられる一つのステップです。苦しみを通して罪を教えてくださることがよくあります。皆さんが今うまくいかないこと、苦しんでいることを一つ挙げてみてください。そして原因をよく考えてみてください。それは他人のせいだと思っていたかもしれません。でも、イエス様は言われます。


(マタイ7章3-5節)

あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。

(…中略…)見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。


僕らは誰かのせいにします。あいつが悪いと言います。でも、犯人を捕まえて顔を見てみたら自分だった、ということがあります。イエス様があなたにはもっと大きな罪があるとおっしゃいます。

イスラエルは20年ずっと二心でした。自分達は悪くない、ペリシテ人が悪いと思っていました。でも20年苦しんでようやく二心だったことを認めて悔い改めました。


(3)

サムエルはイスラエルの全家に言った。「もしあなたがたが、心のすべてをもって主に立ち返るなら、あなたがたの間から異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。そして心を主に向け、主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出してくださいます。」


「心のすべてをもって主に立ち返るなら」とサムエルは言います。今までは偶像と神様の二股生活でした。皆さんにとって、神様とこの世の二股、神様と罪の二股生活はあるでしょうか。


神様は苦しみを通して教えてくださいます。

順調ならば自分の罪がわからなかったかもしれません。祈りも出てこなかったかもしれません。彼らは苦しみを通して初めて罪を示され、悔い改め、神様にのみ祈り求めることの重要さを知りました。


2祈り求めることの祝福


※悔い改めを嫌う悪魔の攻撃とその対処法


自分の罪を認めて捨てることは神様にとって喜びだけど、悪魔にとっては最悪です。悪魔の喜びは神様を信じる人が罪を続けることです。悪魔との浮気も続けて欲しいんです。悔い改めて愛人と別れたら、愛人がキレて復讐するように、悔い改める時に悪魔も動き出し、敵を使って攻撃してきます。


(7)

イスラエル人がミツパに集まったことをペリシテ人が聞いたとき、ペリシテ人の領主たちはイスラエルに向かって上って来た。イスラエル人はこれを聞いて、ペリシテ人を恐れた。


主に立ち返った時に敵が挑戦してくるということはよくあります。主に立ち返ったらその後はバラ色の人生になるのではありません。悪魔は悔い改めを憎んでいます。二股生活を続けてほしいと願っています。だから僕らが主に立ちかえる時に、邪魔がしばしば入ります。

洗礼を受けた時、急に家族から迫害を受けます。献身の歩みを決めたとき、急にトラブルに巻き込まれます。よくあることです。敵も動き出しますが脅しに負けてはいけません。必ず勝利します。回復が始まります。本当の戦いは悔い改めたその次に始まります。勝利の方法は自分で戦うのでなく、神様に祈り求めることです。自分で祈るのも大事だけど、祈ってもらうのも大事です。彼らはサムエルに祈ってくださいとお願いしました。


(8-9)

8,イスラエル人はサムエルに言った。「私たちから離れて黙っていないでください。私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。主が私たちをペリシテ人の手から救ってくださるようにと。」

9,サムエルは、乳離れしていない子羊一匹を取り、焼き尽くす全焼のささげ物として主に献げた。サムエルはイスラエルのために主に叫んだ。すると主は彼に答えられた。


(10)

10,サムエルが全焼のささげ物を献げていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来た。しかし主は、その日ペリシテ人の上に大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。


サムエルはこの日叫んで祈りました。神様は答えてくださり、雷鳴で敵をかき乱してくださいました。

サムエルの人生、この日だけ祈ったのではありません。少なくても20年は祈りました。(1)サムエルは子どもの時からこの国の腐った面を見てきました。それが原因でこの国が痛み苦しんでいることを知っていました。彼は祈り続けました。神様は祈り求めている人たちのために放っておくはずがありません。祈る事は最大の私たちができる最大のそして、最優先すべき奉仕です。


タイパという言葉が2022年の今年の新語の大賞に選ばれたそうです。

時間に対して得られる効果のことです。なるべく短い時間で効率よく結果を出すことがタイパばよいといいます。時間がかかることをタイパ悪いといいます。

今はタイパの時代かもしれません。買い物も連絡も簡単になりました。


でも、同時に神様との交わりも簡単になりがちです。神様をタイパを全く求めていません。何よりも一番良い時間、神様との時間をたっぷり求めておられます。


みなさんが大好きな人、こっちを向いて欲しい人は誰でしょう。その人がなるべく簡単に、タイパを求めて時間をかけないで短めに挨拶だけするとか、用件だけ伝えるとか、その態度に愛はあるでしょうか。そこに相手への尊敬はあるでしょうか。神様との愛の関係を強くすることこそ最大の奉仕です。祈りの中で神様をゆっくり交わることこそ神様が1番求めておられることです。

皆さんがいつも1番時間かけているのは何でしょうか?家に帰って1番時間をかけることはなんでしょう。ゲームでしょうか?インスタでしょうか?


祈りは集会のはじめにおまけですることでもなく、食事の前の10秒だけする儀式でもありません。祈りは神様との会話です。生きた交わりです。命そのものです。命の交流です。


※祈りの大切さの実例


使徒たちの時代、最初の教会、初代教会で食べ物の問題がありました。

やもめのような弱い人たちがなおざりにしている見過ごせない聞き捨てならない状況です。(使徒6章)それでもそれでも使徒たちは自分らが祈りの時間を減らして、神様のことばを聞く時間を後回しにしてその問題に関わるのは良くないと言いました。私たちは祈りと神の言葉に専念するから、代わりに御霊に満たされた、信頼される人たちを7人選びなさいと言ったんです。教会の中心は祈りとみことばです。祈りこそ心臓です。祈りとみ言葉を優先することの大事さを聖書は教えています。

祈りがなければ、教会は力を失います。もし教会に力がないなら、それは祈らないからです。


東栄教会は小グループによってみんなが丁寧に牧会され、祈られるように、祈り合うことができるようにと数年前からその仕組みを考えてきました。そして、小グループにはそれぞれリーダーが必要です。そして、リーダーの仕事は、何よりもメンバーのために祈ることです。


祈りもしないで、ああすれば良い、こうすれば良いと立派な知恵を出しても、すごいな、って思うだけで、霊的に力がないのです。皆さんも聞いたことがあると思います。すごく賢いなあ、頭がいいな、って思うけどなんか心に響かない、そういう指導者を見たことがあるかもしれません。


逆の人もいます。態度も言葉も今ひとつなのに、霊が燃やされる、神様がここにおられる、とわかる、そういうリーダーもいます。何が違のでしょうか。その人の賢さや話し方が上手いかどうかではありません。誰も見たいないところで、いかに神様との関係を喜び、自分を捨て、自分を明渡し、祈り、感謝し、讃美の生活をしているかです。祈り以外に神様からの力を預かる方法はありません。


今日、賛美奉仕者の学びをします。14:00からです。よかったらぜひどなたでもご参加ください。リバーの授業を僕も聴講して教えられています。


賛美奉仕は目立ちます。そして、人前に出る時、割とがんばります。

大事なのは誰も見ていない時です。密室での祈り、奥まった部屋での賛美、ここに真価が問われます

教会の設備が整い、音響が整い、人が増えて、秩序や係分担がうまくいっていても、そこに祈りがなければ霊的な力がありません。祈りによってだけ神の力は与えられ、神様の御業が現れます。


人々がみんな悔い改め、祈ったとき、祈るだけでなく偶像を捨てた時、サムエルが祈った時、神様が敵を散らしてくださいました。


10,サムエルが全焼のささげ物を献げていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来た。しかし主は、その日ペリシテ人の上に大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。


神様が大きな雷鳴を轟かせ、彼らをかき乱し勝利させてくださった。

昔話ではありません。今も神様それがおできになります。昔だから奇跡があったんだよね、今はないよね、という人は神様に対して侮辱的です。神様の力が小さくなったんですか?それはありません。

問題は、僕らが信頼していのらなくなったことだと思います。本当に神様を優先せず、便利なことやこの世の知恵と神様とを半々にしていることが原因だと思います。


神様と交わっていくとき、多くの場合は自分の中にある傲慢さに気がつきます。悔い改めと祈りは、神様の栄光と力の表れ癒し回復への方法です。


(ヤコブの手紙 5章16節)

ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。


時間で測れないけど、でもやっぱり5分じゃ無理だと思います。

カウンセリングの講義に行った時に、注意されました。

「遠藤先生、早すぎる」と。相手を理解して祈るなら、最低1時間は相手の話聞いてください、言われました。その通りと思います。人間でさえ最低でも1時間は聞いてください、と言われるなら、神様のことを知るのにはもっとかかります。神様との交わりに時間を費やすことより大事な用事はありますか?


苦しみは僕らを祈りに導きます。祈りは僕らの中にある罪を教えてくださいます。そして悔い改めへと導いてくださいます。祈りは、僕らの力を超えて敵を追い払ってくれます。神様の驚くべき力を見せてくださいます。


神学校の卒業式に舟喜先生に言われたことが忘れられません。「祈りは本業。牧師は副業」皆さんも同じです。祈りが本業。仕事は副業。勝利と力は神様にあります。僕らの能力をはるかに超えた驚くべきことが、神様によってなされます。祈りましょう。神様と一つの心になりましよう。


3献身することの祝福


サムエルは全焼のいけにえささげました。

全焼とは、灰になるまで全てを焼き尽くし、ささげきることの現れです。


(9)

サムエルは、乳離れしていない子羊一匹を取り、焼き尽くす全焼のささげ物として主に献げた。サムエルはイスラエルのために主に叫んだ。すると主は彼に答えられた。


焼き尽くす全焼のささげ物は自分の全てを捧げることを表す当時の方法でした。残すところなく、神様に神様に自分の心も体も全てを捧げることです。最初からサムエルは言っていました。


(3)

サムエルはイスラエルの全家に言った。「もしあなたがたが、心のすべてをもって主に立ち返るなら、あなたがたの間から異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。そして心を主に向け、主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出してくださいます。」


祈っていると自分が神様に頼らず、自分の経験や知識にばかり頼って疲れていることがわかります。そして祈っているとその二心や傲慢さを告白したくなります。そして、告白した時に、傲慢な心は砕かれていきます。砕かれた魂は神様に喜ばれます。そしてそこにキリストの命が満ちます。神様の命が力が栄光が現れます。献身は、残すところなく、自分を明け渡すことです。神学校に行くことがイコール献身ではありません。神学生でも明け渡してない人いるし、神学生でなくとも自分を明け渡して献身している人はたくさんいます。


全焼のいけにえは、自分を完全に明け渡すことです。この体が心が神様の住まいとなることです。皆さんの体が皆さんの生活全部が神様のものです。


皆さんの部屋にイエス様が住んでいます。イエス様が嫌いなものをおかないと言うことです。皆さんのベッドの下に何があるか、知りません。スマホの中にどんな履歴があるのか、僕は知りません。でも、イエス様が皆さんの部屋にそのスマホに体に心に一緒にいます。そして全部明け渡して、神様がお嫌いなものを認め手放していくことが献身であり悔い改めであり勝利です。


その時に、神様の住まいとして、神様と一緒に歩むものとして力を得ます。

この時、神様は雷鳴を轟かせて敵を散らしてくださいましたが、イスラエル人たちはボーっと見ていたのではありません。神様にささげた自分として、一緒に戦いました。


(10-11)

10,サムエルが全焼のささげ物を献げていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来た。しかし主は、その日ペリシテ人の上に大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。

11,イスラエルの人々は、ミツパから出てペリシテ人を追い、彼らを討ってベテ・カルの下にまで行った。


彼らは神様の勝利の戦いに参加しました。神様はもう既に勝っています。神様と一緒に敵を追い出す仕事を一緒にしただけです。


祈りは戦いの一番大事なところです。

そして祈りは祈りだけで終わらず、僕らに力を与え、僕らの行動力になります。祈りが力を生みます。

祈りなしには力は与えられません。


私たちも神様に自分を明け渡して、力を得て、神様と一緒に戦い一緒に悪に勝利するように作られています。


4 感謝することの祝福


(12から14)

12,サムエルは一つの石を取り、ミツパとエシェンの間に置き、それにエベン・エゼル(助けの石)という名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言った。

13,ペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領土に入って来なかった。サムエルの時代を通して、主の手がペリシテ人の上にのしかかっていた。

14,ペリシテ人がイスラエルから奪い取っていた町々は、エクロンからガテまでが、イスラエルに戻った。イスラエルはペリシテ人の手から、その領土を解放した。そのころ、イスラエルとアモリ人の間には平和があった。


すべての栄光と感謝を神様にだけ捧げました。勝利も神様のもの、賛美は神様のもの、感謝は神様のものです。神様よくしてくださったことを思い出し、忘れないための石を置きました。


すぐに神様以外に手柄を栄光を与えがちです。あの人がよかった、この方法がよかった。と。でも賛美を感謝をささげる方はただ一人です。賛美奉仕者は消えるべきです。ただ、主だけが讃えられるべきお方です。最近、改めてリバーワーシップスクールで教えられています。


主にのみ仕えましょう。二心を捨て、神様にだけ祈る人になりましょう。全てを明け渡し献身しましょう。感謝と栄光を捧げましょう!


苦しみは悔い改めへの通過点です。悔い改めることは祝福です。祈りこそ祝福です。悔い改めて献身しましょう。ハレルヤ!