2024年6月25日火曜日

1サムエル7.1-14 「主にのみ仕えるなら 」 6/23メッセージ

 1サムエル7.1-14 「主にのみ仕えるなら 」 6.23メッセージ


イントロ

今日の箇所は長くペリシテ人に苦しめられていたイスラエルがそこから解放されて勝利した箇所です。皆さんの生活の中に長く苦しんでいることがあると思います。苦しみの原因を簡単にあれが悪いから、あれが原因だから、と言えないけども、でも、苦しみの原因の一つは僕ら人間の罪です。その原因はあなたの罪だ、決めつけないようにと思うけど、でも、罪があるところに苦しみが生まれるのも聖書が伝えることです。最初、罪のなかったエデンの園は「それは非常によかった」とあります。創世記の1章31節です。

そして、将来、やがて与えられる新しい天と地ではやっぱり罪も苦しみもありません。その世界はもはや呪われるものは何もない、とあります。


(黙示録 21:4)

「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」


今2024年、僕らは罪で汚れた世界に生きています。やがてイエス様が来られて回復してくださるのは知っているけど、今はまだ途中です。汚れた世界の中にいながら、イエス様を信じて、赦されました。きよめられました。どんなにひどいことをした人でも、性格が悪くても、神様は「聖なるもの」と呼んで受け入れてくださっています。変えられ途中だけど、完全ではないです。「すでに」と「いまだ」の間です。


今日の箇所はその実例のような箇所です。

サムエルの時代、イスラエルが苦しんでいた原因は罪でした。


サムエルは子供の時から祭司エリに預けられて祭司の家で育ったけど、この当時の祭司の家は腐っていました。祭司とは名ばかりで、エリの子どもたちは礼拝する人たちからその捧げ物を横取りして食べていました。礼拝者が「まず、主にささげてから…」と言うと「なら腕ずくで取る」と言っていた人たちです。また、礼拝し神様に仕える女性たちを誘惑しては体の関係を持っていました。堕落した祭司の家族の中で育ったけど、それでも神様はサムエルに語りかけ、サムエルも神様の言葉を聞くことができました。この時代、国中が偶像礼拝で満ちていました。その時代に心を痛めながら育ったのがサムエルです。


ずっとサムエルは祈ってきました。何年も祈ってきました。ようやくイスラエルが神様を求めるようになり、神様の言葉を聞く耳ができたのがこの時期です。


(2節)イスラエルの全家は主を慕い求めていた。


ようやくこの国に聞く耳ができ、この国が悔い改め、回復し祝福されていった箇所です。

皆さんの人生にも、そしてこの日本にもすごく関係のある箇所です。今日のポイントは4つです。メインは1と2です。


1悔い改めることの祝福

2祈り求めることの祝福

3献身すること祝福

4感謝することの祝福



1悔い改めることの祝福


イスラエルの苦しみの原因は明らかでした。神様を捨てて他を慕う二心ゆえに敵に苦しめられていました。


(士師記 2章13~14節)

彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、

主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪する者の手に渡して略奪されるままにし、周りの敵の手に彼らを売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。


だからサムエルは言いました。


(3)

サムエルはイスラエルの全家に言った。「もしあなたがたが、心のすべてをもって主に立ち返るなら、あなたがたの間から異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。そして心を主に向け、主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出してくださいます。」


悔い改めが救いになる、と伝えるとイスラエル人たちはその通りにしました。彼らは本当に神様に向き直り、神様が嫌い、怒る偶像を捨てました。


(4)

イスラエル人は、バアルやアシュタロテの神々を取り除き、主にのみ仕えた。


祝福されるために必要な最初のステップは悔い改めです。悔い改めてとは方向転換です。方向転換というのは神様の御言葉を聞いて、自分の罪を認めて言い表すことです。そしてその罪を手放すことです。


(6節)

彼らはそこで、「私たちは主の前に罪ある者です」と言った。


※悔い改めと後悔の違い


どうせダメなんだと後悔するのは悔い改めではありません。自分を責めて悲しむだけなら癒しはありません。自分なんていなければいいと思い、死にたくなる人もたくさんいます。


悔い改めには希望があります。悲しみを通るけど、その悲しみは希望に変わり、救いに変わります。赦されます。やり直せます。それが悔い改めです。罪を止めることを神様が喜んでくださり、回復を与えてくださるのが悔い改めです。罪は悲しいけど、それを認めて神様に告白して、捨てること、神様の方に向き直ることです。悔い改めは人を救い、人を生かします。人生はやり直せます。


反対に後悔するだけの人のことばかり考えて攻撃します。ああすればよかった、こうすればよかった。自分が悪い、自分はああだ、こうだ、と。あいつが悪い、こいつが悪い、神様が悪い、と原因ばかり探し、責めて悲しむのが後悔です。そこには希望がありません。回復もありません。聖書はこのことを次のようにまとめています。


(2コリント 7:10)

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。


悔い改める人にとっては神様の言葉は福音です。神様の教えは命です。そこに新しい命があり回復があります。そして神様の大きな栄光と力を見ます。でも、悔い改めない人にとっては、神様の言葉は人を責め、攻撃するだけの嫌な言葉にしか聞こえないでしょう。


希望のある悔い改めは、神様に喜ばれない罪があることを認めて手放していくです。この場合は4節にあるように偶像を持っていたことでした。悔い改めは命をもたらし救いをもたらしまします。


彼らはバアルやアシュタロテに賛美と礼拝を捧げ、救いと癒しを偶像に求め、それを信じて愛していました。それは神様の怒りと妬みと悲しみを招くものでした。

人間でも、伴侶を裏切る人は二人の祝福を壊します。それは妬みと怒りを招き苦しみを生みます。


彼らが悔い改めるまで20年かかりました。その日、突然、急にできたことではありません。苦しみを通して、敵の攻撃に悩み続けて、ようやくその原因がわかりました。


苦しみは僕らが悔い改めに導かれるために与えられる一つのステップです。苦しみを通して罪を教えてくださることがよくあります。皆さんが今うまくいかないこと、苦しんでいることを一つ挙げてみてください。そして原因をよく考えてみてください。それは他人のせいだと思っていたかもしれません。でも、イエス様は言われます。


(マタイ7章3-5節)

あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。

(…中略…)見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。


僕らは誰かのせいにします。あいつが悪いと言います。でも、犯人を捕まえて顔を見てみたら自分だった、ということがあります。イエス様があなたにはもっと大きな罪があるとおっしゃいます。

イスラエルは20年ずっと二心でした。自分達は悪くない、ペリシテ人が悪いと思っていました。でも20年苦しんでようやく二心だったことを認めて悔い改めました。


(3)

サムエルはイスラエルの全家に言った。「もしあなたがたが、心のすべてをもって主に立ち返るなら、あなたがたの間から異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。そして心を主に向け、主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出してくださいます。」


「心のすべてをもって主に立ち返るなら」とサムエルは言います。今までは偶像と神様の二股生活でした。皆さんにとって、神様とこの世の二股、神様と罪の二股生活はあるでしょうか。


神様は苦しみを通して教えてくださいます。

順調ならば自分の罪がわからなかったかもしれません。祈りも出てこなかったかもしれません。彼らは苦しみを通して初めて罪を示され、悔い改め、神様にのみ祈り求めることの重要さを知りました。


2祈り求めることの祝福


※悔い改めを嫌う悪魔の攻撃とその対処法


自分の罪を認めて捨てることは神様にとって喜びだけど、悪魔にとっては最悪です。悪魔の喜びは神様を信じる人が罪を続けることです。悪魔との浮気も続けて欲しいんです。悔い改めて愛人と別れたら、愛人がキレて復讐するように、悔い改める時に悪魔も動き出し、敵を使って攻撃してきます。


(7)

イスラエル人がミツパに集まったことをペリシテ人が聞いたとき、ペリシテ人の領主たちはイスラエルに向かって上って来た。イスラエル人はこれを聞いて、ペリシテ人を恐れた。


主に立ち返った時に敵が挑戦してくるということはよくあります。主に立ち返ったらその後はバラ色の人生になるのではありません。悪魔は悔い改めを憎んでいます。二股生活を続けてほしいと願っています。だから僕らが主に立ちかえる時に、邪魔がしばしば入ります。

洗礼を受けた時、急に家族から迫害を受けます。献身の歩みを決めたとき、急にトラブルに巻き込まれます。よくあることです。敵も動き出しますが脅しに負けてはいけません。必ず勝利します。回復が始まります。本当の戦いは悔い改めたその次に始まります。勝利の方法は自分で戦うのでなく、神様に祈り求めることです。自分で祈るのも大事だけど、祈ってもらうのも大事です。彼らはサムエルに祈ってくださいとお願いしました。


(8-9)

8,イスラエル人はサムエルに言った。「私たちから離れて黙っていないでください。私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。主が私たちをペリシテ人の手から救ってくださるようにと。」

9,サムエルは、乳離れしていない子羊一匹を取り、焼き尽くす全焼のささげ物として主に献げた。サムエルはイスラエルのために主に叫んだ。すると主は彼に答えられた。


(10)

10,サムエルが全焼のささげ物を献げていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来た。しかし主は、その日ペリシテ人の上に大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。


サムエルはこの日叫んで祈りました。神様は答えてくださり、雷鳴で敵をかき乱してくださいました。

サムエルの人生、この日だけ祈ったのではありません。少なくても20年は祈りました。(1)サムエルは子どもの時からこの国の腐った面を見てきました。それが原因でこの国が痛み苦しんでいることを知っていました。彼は祈り続けました。神様は祈り求めている人たちのために放っておくはずがありません。祈る事は最大の私たちができる最大のそして、最優先すべき奉仕です。


タイパという言葉が2022年の今年の新語の大賞に選ばれたそうです。

時間に対して得られる効果のことです。なるべく短い時間で効率よく結果を出すことがタイパばよいといいます。時間がかかることをタイパ悪いといいます。

今はタイパの時代かもしれません。買い物も連絡も簡単になりました。


でも、同時に神様との交わりも簡単になりがちです。神様をタイパを全く求めていません。何よりも一番良い時間、神様との時間をたっぷり求めておられます。


みなさんが大好きな人、こっちを向いて欲しい人は誰でしょう。その人がなるべく簡単に、タイパを求めて時間をかけないで短めに挨拶だけするとか、用件だけ伝えるとか、その態度に愛はあるでしょうか。そこに相手への尊敬はあるでしょうか。神様との愛の関係を強くすることこそ最大の奉仕です。祈りの中で神様をゆっくり交わることこそ神様が1番求めておられることです。

皆さんがいつも1番時間かけているのは何でしょうか?家に帰って1番時間をかけることはなんでしょう。ゲームでしょうか?インスタでしょうか?


祈りは集会のはじめにおまけですることでもなく、食事の前の10秒だけする儀式でもありません。祈りは神様との会話です。生きた交わりです。命そのものです。命の交流です。


※祈りの大切さの実例


使徒たちの時代、最初の教会、初代教会で食べ物の問題がありました。

やもめのような弱い人たちがなおざりにしている見過ごせない聞き捨てならない状況です。(使徒6章)それでもそれでも使徒たちは自分らが祈りの時間を減らして、神様のことばを聞く時間を後回しにしてその問題に関わるのは良くないと言いました。私たちは祈りと神の言葉に専念するから、代わりに御霊に満たされた、信頼される人たちを7人選びなさいと言ったんです。教会の中心は祈りとみことばです。祈りこそ心臓です。祈りとみ言葉を優先することの大事さを聖書は教えています。

祈りがなければ、教会は力を失います。もし教会に力がないなら、それは祈らないからです。


東栄教会は小グループによってみんなが丁寧に牧会され、祈られるように、祈り合うことができるようにと数年前からその仕組みを考えてきました。そして、小グループにはそれぞれリーダーが必要です。そして、リーダーの仕事は、何よりもメンバーのために祈ることです。


祈りもしないで、ああすれば良い、こうすれば良いと立派な知恵を出しても、すごいな、って思うだけで、霊的に力がないのです。皆さんも聞いたことがあると思います。すごく賢いなあ、頭がいいな、って思うけどなんか心に響かない、そういう指導者を見たことがあるかもしれません。


逆の人もいます。態度も言葉も今ひとつなのに、霊が燃やされる、神様がここにおられる、とわかる、そういうリーダーもいます。何が違のでしょうか。その人の賢さや話し方が上手いかどうかではありません。誰も見たいないところで、いかに神様との関係を喜び、自分を捨て、自分を明渡し、祈り、感謝し、讃美の生活をしているかです。祈り以外に神様からの力を預かる方法はありません。


今日、賛美奉仕者の学びをします。14:00からです。よかったらぜひどなたでもご参加ください。リバーの授業を僕も聴講して教えられています。


賛美奉仕は目立ちます。そして、人前に出る時、割とがんばります。

大事なのは誰も見ていない時です。密室での祈り、奥まった部屋での賛美、ここに真価が問われます

教会の設備が整い、音響が整い、人が増えて、秩序や係分担がうまくいっていても、そこに祈りがなければ霊的な力がありません。祈りによってだけ神の力は与えられ、神様の御業が現れます。


人々がみんな悔い改め、祈ったとき、祈るだけでなく偶像を捨てた時、サムエルが祈った時、神様が敵を散らしてくださいました。


10,サムエルが全焼のささげ物を献げていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来た。しかし主は、その日ペリシテ人の上に大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。


神様が大きな雷鳴を轟かせ、彼らをかき乱し勝利させてくださった。

昔話ではありません。今も神様それがおできになります。昔だから奇跡があったんだよね、今はないよね、という人は神様に対して侮辱的です。神様の力が小さくなったんですか?それはありません。

問題は、僕らが信頼していのらなくなったことだと思います。本当に神様を優先せず、便利なことやこの世の知恵と神様とを半々にしていることが原因だと思います。


神様と交わっていくとき、多くの場合は自分の中にある傲慢さに気がつきます。悔い改めと祈りは、神様の栄光と力の表れ癒し回復への方法です。


(ヤコブの手紙 5章16節)

ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。


時間で測れないけど、でもやっぱり5分じゃ無理だと思います。

カウンセリングの講義に行った時に、注意されました。

「遠藤先生、早すぎる」と。相手を理解して祈るなら、最低1時間は相手の話聞いてください、言われました。その通りと思います。人間でさえ最低でも1時間は聞いてください、と言われるなら、神様のことを知るのにはもっとかかります。神様との交わりに時間を費やすことより大事な用事はありますか?


苦しみは僕らを祈りに導きます。祈りは僕らの中にある罪を教えてくださいます。そして悔い改めへと導いてくださいます。祈りは、僕らの力を超えて敵を追い払ってくれます。神様の驚くべき力を見せてくださいます。


神学校の卒業式に舟喜先生に言われたことが忘れられません。「祈りは本業。牧師は副業」皆さんも同じです。祈りが本業。仕事は副業。勝利と力は神様にあります。僕らの能力をはるかに超えた驚くべきことが、神様によってなされます。祈りましょう。神様と一つの心になりましよう。


3献身することの祝福


サムエルは全焼のいけにえささげました。

全焼とは、灰になるまで全てを焼き尽くし、ささげきることの現れです。


(9)

サムエルは、乳離れしていない子羊一匹を取り、焼き尽くす全焼のささげ物として主に献げた。サムエルはイスラエルのために主に叫んだ。すると主は彼に答えられた。


焼き尽くす全焼のささげ物は自分の全てを捧げることを表す当時の方法でした。残すところなく、神様に神様に自分の心も体も全てを捧げることです。最初からサムエルは言っていました。


(3)

サムエルはイスラエルの全家に言った。「もしあなたがたが、心のすべてをもって主に立ち返るなら、あなたがたの間から異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。そして心を主に向け、主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出してくださいます。」


祈っていると自分が神様に頼らず、自分の経験や知識にばかり頼って疲れていることがわかります。そして祈っているとその二心や傲慢さを告白したくなります。そして、告白した時に、傲慢な心は砕かれていきます。砕かれた魂は神様に喜ばれます。そしてそこにキリストの命が満ちます。神様の命が力が栄光が現れます。献身は、残すところなく、自分を明け渡すことです。神学校に行くことがイコール献身ではありません。神学生でも明け渡してない人いるし、神学生でなくとも自分を明け渡して献身している人はたくさんいます。


全焼のいけにえは、自分を完全に明け渡すことです。この体が心が神様の住まいとなることです。皆さんの体が皆さんの生活全部が神様のものです。


皆さんの部屋にイエス様が住んでいます。イエス様が嫌いなものをおかないと言うことです。皆さんのベッドの下に何があるか、知りません。スマホの中にどんな履歴があるのか、僕は知りません。でも、イエス様が皆さんの部屋にそのスマホに体に心に一緒にいます。そして全部明け渡して、神様がお嫌いなものを認め手放していくことが献身であり悔い改めであり勝利です。


その時に、神様の住まいとして、神様と一緒に歩むものとして力を得ます。

この時、神様は雷鳴を轟かせて敵を散らしてくださいましたが、イスラエル人たちはボーっと見ていたのではありません。神様にささげた自分として、一緒に戦いました。


(10-11)

10,サムエルが全焼のささげ物を献げていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来た。しかし主は、その日ペリシテ人の上に大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。

11,イスラエルの人々は、ミツパから出てペリシテ人を追い、彼らを討ってベテ・カルの下にまで行った。


彼らは神様の勝利の戦いに参加しました。神様はもう既に勝っています。神様と一緒に敵を追い出す仕事を一緒にしただけです。


祈りは戦いの一番大事なところです。

そして祈りは祈りだけで終わらず、僕らに力を与え、僕らの行動力になります。祈りが力を生みます。

祈りなしには力は与えられません。


私たちも神様に自分を明け渡して、力を得て、神様と一緒に戦い一緒に悪に勝利するように作られています。


4 感謝することの祝福


(12から14)

12,サムエルは一つの石を取り、ミツパとエシェンの間に置き、それにエベン・エゼル(助けの石)という名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言った。

13,ペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領土に入って来なかった。サムエルの時代を通して、主の手がペリシテ人の上にのしかかっていた。

14,ペリシテ人がイスラエルから奪い取っていた町々は、エクロンからガテまでが、イスラエルに戻った。イスラエルはペリシテ人の手から、その領土を解放した。そのころ、イスラエルとアモリ人の間には平和があった。


すべての栄光と感謝を神様にだけ捧げました。勝利も神様のもの、賛美は神様のもの、感謝は神様のものです。神様よくしてくださったことを思い出し、忘れないための石を置きました。


すぐに神様以外に手柄を栄光を与えがちです。あの人がよかった、この方法がよかった。と。でも賛美を感謝をささげる方はただ一人です。賛美奉仕者は消えるべきです。ただ、主だけが讃えられるべきお方です。最近、改めてリバーワーシップスクールで教えられています。


主にのみ仕えましょう。二心を捨て、神様にだけ祈る人になりましょう。全てを明け渡し献身しましょう。感謝と栄光を捧げましょう!


苦しみは悔い改めへの通過点です。悔い改めることは祝福です。祈りこそ祝福です。悔い改めて献身しましょう。ハレルヤ!


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