1サムエル8章から9章
「フォローする」とは「足りないところや仕損じたところをあとから補うこと。」とありました。例は「初心者をベテランがフォローする」です。神様は、まさにそのような方です。神様を失敗する人間を見放さず、切り捨てず、ズレているのを知りながらフォローし続けてくださる方です。
イスラエルの王様は神様ご自身です。神様が権威ある言葉によって導いておられました。だのに、彼らは人間の王様を求めます。「ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」(8章4節)これは神様に対する侮辱です。そしてサムエルにとっても気に入らないことでした。それでも神様は彼らを見放さず、ズレていく彼らに寄り添い、王様を与えてくださいます。
(8章7節から9節)
7,主はサムエルに言われた。「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。
8,わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのしたことといえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えることだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。
9,今、彼らの声を聞き入れよ。ただし、彼らに自分たちを治める王の権利をはっきりと宣言せよ。」
サムエルは「もう知らない。勝手にしろ!」と言いたかったかもしれません。でも、彼は主に祈りました。(8.6)神様は祈りに答えて下さいました。サムエルがしたことは神様に言われた通りにすることです。それは、人々がズレているのを知りながらも、神様と一緒に彼らをフォローし続け、王様を任命する手伝いをすることです。神様は蔑まれながらも人を尊重し、人々を救おうとする方です。
(9章15節から17節)
15,主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて告げておられた。
16,「明日の今ごろ、わたしはある人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたはその人に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫びがわたしに届き、わたしが自分の民に目を留めたからだ。」
17,サムエルがサウルを見るやいなや、主は彼に告げられた。「さあ、わたしがあなたに話した者だ。この者がわたしの民を支配するのだ。」
神様は誰よりも謙遜です。謙遜のレベルを超えています。侮辱されてもなお、相手のために、その罪さえ相手を救うためのプロセスとされます。彼らの傲慢さや間違いは彼らを救うための通過点となりました。イエス様もまたそのような方です。人から侮辱され、ののしられて殺されました。すぐに裁き滅ぼし尽くすことができる方です。…でも、彼らの傲慢さをその先の祝福のための通過点として用いられます。聖書はイエス様のことを次のように書いています。
(ペテロの手紙 第一2章23~24)
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
今日も神様は僕らの失敗や傲慢さを祝福のために用いてくださいます。神様は全てのことを益としてくださるお方です。(ローマ人への手紙 8章28節)
気に入らないことがあると簡単に相手を切りがちです。が、イエス様は間逆です。人々が失敗しているのを知りながら、侮辱してることを知りながら、それでも見放さず、寄り添い続けてくださいます。間違いさえも祝福に変えようとしてくださる方です。神様は間違えることがありません。神様のフォローは完璧です。僕らもイエス様を見習いましょう。見放さず、見捨てず、フォローするものになりましょう。
(1ペテロ3.9)
悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。
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