2024年6月20日木曜日

1サムエル4章

 1サムエル4章


「こうすればうまくいく」方法とか、形とか、目に見えるものが僕らは好きです。イスラエルが劣勢になった時、彼らは神様のみことばを求めもせず、神様を愛し従うこともせずに、ただ「こうすればうまくいく」と、契約の箱を戦場に持ってきました。



(2節から3節)

2,ペリシテ人はイスラエルを迎え撃つ陣備えをした。戦いが広がると、イスラエルはペリシテ人に打ち負かされ、約四千人が野の戦場で打ち殺された。

3,兵が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「どうして主は、今日、ペリシテ人の前でわれわれを打たれたのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、その箱がわれわれの間に来て、われわれを敵の手から救うだろう。」



確かに「契約の箱」に神様はご臨在されます。また、箱がご臨在を表すものとして用いられた経験はありました。ヨシュアの時代にはそれを担いでヨルダン川に足を踏み入れた時に川はせき止められ、渡ることができました。(ヨシュア3章から4章) また、エリコを征服した時は「契約の箱」を先頭に城壁の周りを回り、城壁は崩れました。(ヨシュア6章1節から20節) でも、それらはすべて神様がそのようにするようにおっしゃった結果です。彼らは神様に求めもせず、聞きせずに、ただ自動的に「契約の箱」を戦場に持ってきたら勝利できると考えたようです。



(4節から5節)

4,兵たちはシロに人を送り、そこから、ケルビムに座しておられる万軍の主の契約の箱を担いで来させた。そこに、神の契約の箱とともに、エリの二人の息子、ホフニとピネハスがいた。

5,主の契約の箱が陣営に来たとき、全イスラエルは大歓声をあげた。それで地はどよめいた。



箱を運んできたエリのホフニとピネハス(4)が神様を軽んじていた事は明らかでした。(2.12-17)彼らは罪を認めることもなく、悔い改めることもありません。神様から離れたままの人が儀式とかカタチとか外見を重んじるのはよくある話です。悔い改めることなく勝利することはないのは明らかです。最初は約四千人が打ち殺されましたが、(2)契約の箱を持ってきた後はもっとひどい敗北となりました。



(10-11節)

10,こうしてペリシテ人は戦った。イスラエルは打ち負かされ、それぞれ自分たちの天幕に逃げ、非常に大きな打撃となった。イスラエルの歩兵三万人が倒れた。

11,神の箱は奪われ、エリの二人の息子、ホフニとピネハスは死んだ。



イエス様の時代の偽善者は、長い見せかけの祈りをした人たちです。(マタイ23.14)神様が彼らを義とすることはありませんでした。外見を整えても行いで認められようとしてもムダです。



(ルカ18章12-14節)

12,私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』

13,一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』

14,あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。



この箇所は僕らに教えます。定期的に教会に出席しても、毎日聖書を通読しても、立派な儀式をしても、そこに神様との生きた関係がなければ虚しいものです。今日、正直になって自分に聞いてみましょう。僕らが本当に求めているのは何でしょう。神様を求めているのか、それとも神様以外の何かで救われようとしているのでしょうか。神様を求めましょう。罪を認め、足りなさを認めましょう。そして、イエス様の救いを求めましょう。聖霊の愛を求めましょう。愛がなければ、どんなに整えても全ては虚しいものです。



(1コリント13.1-3節)

1,たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。

2,たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。

3,たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。





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