2サムエル18.19-33
罪の結果は本人が受けなければならないと聖書は伝えています。罪の刈り取りはあるし、必ず神様の裁きを受けます。でもそれは神様にとってスッキリすることではありません。むしろ罪人が苦しみ滅んでいくことは神様にとっての嘆きであり悲しみです。
(エゼキエル書 18章23節)
わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──神である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。
クーデターを起こしてダビデ王の命を狙った息子アブサロムは殺されました。罪の報酬は死です。ですが、同時にそれは父親ダビデにとって激しい悲しみです。
(サムエル記 第二 18章31~33節)
見ると、クシュ人がやって来て言った。「王様にお知らせいたします。主は、今日、あなた様に立ち向かうすべての者の手から、あなた様を救って、あなた様のために正しいさばきをされました。」
王はクシュ人に言った。「若者アブサロムは無事か。」クシュ人は言った。「王様の敵、あなた様に立ち向かって害を加えようとする者はみな、あの若者のようになりますように。」
王は身を震わせ、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブサロム。わが子よ、わが子よ。」
ダビデは悲しみ続け嘆き続けました。ダビデは息子アブサロムが死ぬことではなく、生きて悔い改めることを願っていました。戦いが始まる前、ダビデは隊長たちにアブサロムの命を守るように命じています。
(サムエル記 第二 18章5節)
王はヨアブ、アビシャイ、イタイに命じて言った。「私に免じて、若者アブサロムをゆるやかに扱ってくれ。」兵はみな、王が隊長たち全員にアブサロムのことについて命じているのを聞いていた。
ダビデは戦況の報告が来ると、真っ先に「アブサロムは無事か?」と聞きます。彼が死ぬことではなく、彼が生きて悔い改めることを願っていたことがわかります。
(18.28-29)
アヒマアツは王に「平安がありますように」と叫んで、地にひれ伏して、王に礼をした。彼は言った。「あなたの神、主がほめたたえられますように。主は、王様に手向かった者どもを引き渡してくださいました。」
王は言った。「若者アブサロムは無事か。」アヒマアツは言った。「ヨアブが王の家来であるこのしもべを遣わしたとき、何か大騒ぎが起こるのを見ましたが、私は何があったのか知りません。」
神様は正しく裁かれます。しかし罪人が死ぬことは、神様の悲しみです。ダビデの悲しみは神様の悲しみです。ダビデは「ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。」(33)と嘆き、罪を犯して死んでいく子を愛されます。同じように、イエス様は不敬虔な罪人を愛されます。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5.8)
イエス様が罪を背負って十字架で死ぬことは、神様の嘆きであり悲しみです。ダビデが泣きながら言い続けた「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブサロム。わが子よ、わが子よ。」という嘆きは神様の嘆きです。罪の刈り取りはあるし、必ず神様の裁きを受けます。ですが、それは神様にとっての嘆きであり悲しみです。神様は「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 」(2ペテロ3.9)
罪人を愛し、忍耐し、滅びることを願わずに招いておられる神様の心が今日、僕らの心になりますように。
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