2024年8月19日月曜日

2サムエル18.1-17

 2サムエル18.1-17


罪は自分に返ってきます。何もいいことがありません。

聖書は言います。「人の血を流す者は、人によって血を流される。」(創世記9章6節)「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ人への手紙 6章7節)「罪の報酬は死です。」(ローマ人への手紙 6章23節)


自分の罪が自分に返ってきます。ダビデは他人の妻を欲しがり、手に入れるために相手の夫を殺しました。(2サムエル11章)預言者ナタンがダビデのもとに来て、この罪を指摘します。(2サムエル12章)ダビデは自分の罪の重大さを知り、神様に対して悔い改めましたが、自分の罪がもたらした結果からは逃れることができませんでした。神様はダビデの家族の中で争いが絶えないこと、また、ダビデの子どもが死ぬという厳しい罰を告げました。(2サムエル12.11-14)本当に、バテシェバとの間の子どもは死に、息子アムノンは兄に殺されます。そしてその兄アブサロムも殺されます。これは、罪はそのまま自分に返ってくることを強く示す実例です。


ダビデは自分の国を愛していました。イスラエルは神様にとって「愛する花嫁」です。ところがダビデは自分でその国を攻撃しなければなりません。しかも愛する息子アブサロムは自分を殺そうとしています。これは神様がおっしゃった通りです。「今や剣は、とこしえまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしを蔑み、ヒッタイト人ウリヤの妻を奪い取り、自分の妻にしたからだ。」「あなたに生まれる息子は必ず死ぬ。」(2サムエル12.11-14)ダビデは愛する国民が殺し合う経験、そして愛する息子が殺される経験をしなければなりませんでした。



(6節から8節)

兵たちはイスラエルに対抗するために戦場へ出て行った。戦いはエフライムの森で行われた。

イスラエルの兵たちは、そこでダビデの家来たちに打ち負かされ、その日その場所で多くの者が倒れ、その数は二万人となった。戦いはこの地一帯に広がり、この日、剣よりも密林のほうが多くの者を食い尽くした。



ダビデの子アブサロムも同じく、罪が自分に返って来ます。

彼は自分の栄光を求め王権を欲しがり、人々の心を盗み、ダビデを殺そうとしました。(2サムエル15.5-6、17.12-13)その罪ゆえに自分が殺されることになります。しかも、その原因は彼の自慢の美しく長い髪の毛だったようです。



(18章9~10節)

アブサロムはダビデの家来たちに出会った。アブサロムはらばに乗っていたが、らばが大きな樫の木の、茂った枝の下を通った。すると、アブサロムの頭が樫の木に引っ掛かり、彼は宙づりになった。彼が乗っていたらばはそのまま行ってしまった。ある男がそれを見て、ヨアブに告げて言った。「今、アブサロムが樫の木に引っ掛かっているのを見ました。」



引っかかったアブサロムの髪の毛は美しく、「アブサロムほど、その美しさをほめそやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで、彼には非の打ちどころがなかった。」とあります。(14.25)そして、その髪は長く「刈るときに髪の毛を量ると、王の秤で二百シェケル(2キロ以上)」と書かれています。(14.26)自慢の髪の毛は木に引っかかり、自分を縛り、殺される原因となりました。



(18章14~15節)

ヨアブは、「こうしておまえとぐずぐずしてはいられない」と言って、手に三本の槍を取り、まだ樫の木の真ん中に引っ掛かったまま生きていたアブサロムの心臓を突き通した。

ヨアブの道具持ちの十人の若者たちも、アブサロムを取り巻いて彼を打ち殺した。



罪は自分を傷つけ殺します。アブサロムのように自分の栄光や力を求めても、むしろ神様に裁かれ全てを失っていきます。この負のスパイラルは僕らも同じです。「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ人への手紙 6章7節)「罪の報酬は死です。」(ローマ人への手紙 6章23節)この連鎖から救われるのは、イエス様と一緒に死に、イエス様と一緒に新しく生まれる以外にありません。


イエス様は「心の貧しい者は幸いです。」「悲しむ者は幸いです。」「義に飢え渇いている者は幸いです。」とおっしゃいます。(マタイ5.3-6)自分が撒いた種で苦しんでいることを自覚し、悲しみ、飢える人は幸いです。「自分はあのことせいで不幸になっている」と自覚して悲しむ人、心の貧しい人は祝福されています。「その人は幸いです」とイエス様はおっしゃいます。


救われるための第一ステップは自分の罪深さを知ることです。過去の罪に目を背けないで、聖なる神様のもとでそれを認めることです。そしてそれを告白することです。そしてイエス様の完全な赦しときよめを信じることです。

信じた人は義とされます。「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8.1)罪の結果は地上では完全に消えるわけではありませんが、確実に少なくなっていきます。イエス様の赦しと愛を信じて生きる新しい人生がはじまります。


「あれが悪かった、これが悪かった」という古い人はイエス様と一緒に十字架につけられて死にました。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5章17節)


自分に返ってきている罪を、もう一度ちゃんと告白して神様に明け渡しましょう。イエス様は全ての罪から私たちをきよめます。(1ヨハネ1.9)罪人の自分はイエス様と一緒に死にました。(ガラテヤ2.19-20)イエス様は全てを新しくします。罪の影響は今なおありますが、それでもイエス様は言われます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8.11)

罪は何もいいことがありません。気が付いたら告白してやめましょう。僕らは新しく作られたものです。ハレルヤ!




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