2サムエル19.41-20.2
「軽く扱われた」と感じるだけで、人間は腹を立て、攻撃的になっていきます。「栄光」とは原語で「重さ」のことです。軽んじられると感じ、他の人が重んじられると僕らは妬みます。自分の栄光(重さ)を求めるからです。
クーデターが終わり、ダビデ王がカムバックする時に、どの部族がヨルダン川を王様を渡らせたか、ということが妬みの原因になりました。ダビデと一緒にヨルダン川を渡ったのはユダ族です。他のイスラエルの10部族が到着した時にはもう渡り終えてしまっていたようです。彼らは怒ります。「なぜ、われわれをないがしろにするのか。われわれの王を連れ戻そうと最初に言い出したのは、われわれではないか。」(43) 彼らはダビデ王にも文句を言います。
(41節)
するとそこに、イスラエルのすべての人が王のところにやって来て、王に言った。「われわれの同胞、ユダの人々は、なぜ、あなたを奪い去り、王とその家族に、また王とともにいるダビデの部下たちに、ヨルダン川を渡らせたのですか。」
彼らは子どもの喧嘩のように、どちらが正しいか、どちらが偉いか、強いか、と言い合います。
(42節)
ユダのすべての人々はイスラエルの人々に答えた。「王は、われわれの身内だからだ。なぜ、このことでそんなに怒るのか。いったい、われわれが王の食物を食べたとでもいうのか。王が何かわれわれに贈り物をしたとでもいうのか。」
イスラエルの10部族の人たちは、今度は自分たちの方が数が多い、土地も多いと威張りだします。
(43節)
イスラエルの人々はユダの人々に答えて言った。「われわれは、王のうちに十の分を持っている。だからダビデにも、あなたがたよりも多くを持っている。なぜ、われわれをないがしろにするのか。われわれの王を連れ戻そうと最初に言い出したのは、われわれではないか。」しかし、ユダの人々のことばは、イスラエルの人々のことばより激しかった。
彼らは赦したり、尊敬し、自分を低くすることとは真逆を行き、文句は文句を生み、怒りは怒りを生み出し、高慢は高慢を産んでいきます。
これが再び国を分裂させるきっかけとなりました。
聖書は、争いの始まりは水が流れだすようだといいます。だから、争いが始まる前に止めるのが賢明です。
(箴言 17章14節)
口論の始まりは水が吹き出すようなもの。争い事が起こらないうちにやめよ。
口論の前に、妬みがあることを認めることが大事です。自分は自分の栄光(重さ)を求めているゆえに、人を妬み、不満に思い、怒っている、と自覚することです。イエス様は「心に満ちていることを口が話すのです。」とおっしゃいます。(マタイ12.34-36)
この嫉妬は、クーデターが収束したハッピーエンドを台無しにしました。むしろもっとひどい分裂を生むことになります。この争いに便乗するかのように、新たな反乱者が登場します。
(20章1節から2節)
1,たまたまそこに、よこしまな者で、名をシェバという者がいた。彼はベニヤミン人ビクリの息子であった。彼は角笛を吹き鳴らして言った。「ダビデのうちには、われわれのための割り当て地はない。エッサイの子のうちには、われわれのためのゆずりの地はない。イスラエルよ、それぞれ自分の天幕に帰れ。」
2,すべてのイスラエルの人々は、ダビデから離れ、ビクリの子シェバに従って行った。しかし、ユダの人々はヨルダン川からエルサレムまで、自分たちの王につき従って行った。
軽んじられた、と怒っていたイスラエル10部族はアッという間に再びダビデから離れて行きます。神様を求めず自分の罪に流される人は風に吹き回される枯れ葉のように、次々と状況に流されて行きます。原因は神様ではなく自分が中心であろうとすることです。妬みと怒りと争いは「軽く扱われた」ことからはじまります。
僕らが求めるべきは、自分が重んじられることではなく、神様の栄光を求めることです。栄光とは原語で重さのことです。重さ(栄光)は神様にあります。僕ら軽く扱われていいのです。栄光は主にありますように。「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」(詩篇115.1)ハレルヤ!
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