エペソ1.17-19
「味を知る」は食べることです。「肌触りを知る」は触ることです。「曲を知る」は聞いて覚えて歌うことです。「人はエバを知った」(創世記4章1節ー2節) は性体験をすることです。次の行にはエバの妊娠と出産が書いてあります。同じように、「神の偉大な力を知る」は神の偉大な力を体験することです。「神の栄光を知る」は神の栄光を見ることです。知ることは見て触って聞いて触れて体験することです。神様の願いは、僕らが神様の力を体験することです。
(エペソ人への手紙 1章17~19節)
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、
また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。
神様体験は、神様の御霊によります。自分の努力や知識で神様を体験することはできません。自分を明け渡して神の御霊にゆだねていくことです。自分調べで「神様はこうだ」と決めつけるなら、僕らは何も知っていないし、体験もしていないと聖書は言います。
(コリント人への手紙 第一 8章1~2節)
知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。
自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。
神様を知ることは体験です。神様はこうだと制限してしまう知識はその人を高ぶらせるだけです。その人はわかっていません。なぜならキリストの愛は「人知をはるかに超えた」ものだからです。(3章19節) だから「神様はこうだ」とはいえません。神様の力は僕らの思いをはるかに超えています。(3章20節)
僕らの固定概念を手放しましょう。僕らの理解よりも神様ははかに大きく、広く、深く、高いからです。人の知識や理解のワクに入らない無限の御霊の働きに自分を明け渡しましょう。自分を捨てて、ついてきなさい、とイエス様は言われます。(マタイ16.24)自分を捨てます、と祈りましょう。明け渡します、と祈りましょう。僕らの理解を超えた圧倒的な神様の前にひれ伏し、明け渡し、その大きさ体験する日とされますように。
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