イザヤ18章
看板屋の友達が言っていました。どんなにかっこいいデザイン看板を作っても、何年かすれば汚くて薄汚れた粗大ゴミになる、と。「いらないから撤去して」と言われるたびに虚しくなるそうです。素敵な新築の家も素敵な服も同じです。いつかボロボロの家や服になってしまいます。
同じように、どんなに強い国も、他国を踏みにじる恐れられている国であっても、神様の前では虚しいゴミになってしまいます。
預言者イザヤは、悪人たちの最期がどうなるのかを示しています。彼らは自分たちは高い地位にあって危険から免れていると思い込み、他国を見下す振る舞いをします。でも彼らの終わりは、動物の巣や餌にされるほどに落ちぶれます。
(イザヤ書 18章1~2節)
ああ、羽コオロギの国よ。この国はクシュの幾多の川のかなたにあり、
パピルスの船を水に浮かべて、海路で使いを送る。すばやい使者よ、行け。背が高く肌の滑らかな国民のところへ。あちこちで恐れられている民のところへ。その国土を多くの川が分けている、力強い、踏みにじる国へ。
今も昔も、自分の国の安全のためには強い国と同盟を結び救われようとします。イザヤの時代も同じでした。そんな人間たちを神様は静観しておられます。そして、最終的には、それらの強さをむなしいものとして捨て去ります。
(イザヤ書 18章3~6節)
世界のすべての住民よ。地に住むすべての者よ。山々に旗が揚がるときは見よ。角笛が吹き鳴らされるときは聞け。
主が私にこう言われたからだ。「わたしは静まり、わたしのところから眺める。照りつける日差しの暑さのように、刈り入れの暑さの中の、露をもたらす雲のように。」
刈り入れの前、花が終わって、花房が熟したぶどうになるとき、人はその枝を鎌で切り、そのつるを取って除き去るからだ。
それらはみなともに、山々の猛禽や野獣のために投げ捨てられる。猛禽はその上で夏を過ごし、野獣はみな、その上で冬を過ごす。
今、僕らも世界の戦争の噂を聞いて恐れています。やがて日本も巻き込まれる日が来るかもしれません。どんなに強い国に翻弄されたとしても、僕らがすべきことは、ただ神様に信頼して待ち望むことです
神様は黙って眺めているかのように見えますが、時が来ると必ず正しい裁きをなさいます。
(哀歌 3章26~33節)
主の救いを静まって待ち望むのは良い。
人が、若いときに、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、ひとり静まって座っていよ。
口を土のちりにつけよ。もしかすると希望があるかもしれない。
自分を打つ者には頬を向け、十分に恥辱を受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。
主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。
最後に残るのは、神様を恐れ、神様に感謝と賛美を捧げる人だけです。悪人たちが一時的に繁栄しても、最終的には全てが虚しくなり、滅ぼされます。今、神様を恐れず高ぶっている国も、その日には神様に感謝し賛美するようになります。なぜなら、それ以外の人も国も滅ぼし尽くされるからです。
(イザヤ書 18章7節)
そのとき、背が高く肌の滑らかな民、あちこちで恐れられている民、その国土を多くの川が分けている、力強い踏みにじる国民から、万軍の主の名のある場所、シオンの山へ、万軍の主のために贈り物が運ばれて来る。
神様はただ黙って見ているだけではありません。刈り入れの時が来ます。今日も神様に信頼して、希望を持って忍耐する日でありますように。
(ガラテヤ6章8-9節)
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。
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