エペソ3.14-21 メッセージ 祈りこそカギ 9月8日
●祈りの大切さ
パウロのエペソ教会のメンバーに対する祈りはお手本です
ある牧師は言いました。「教会の仲間のために祈っていないのなら教えても虚しい。教会の組織を整えても会議をしても、祈っていないなら虚しい。あなたがやる事は膝をかがめて跪いて一人ひとりのことを祈ることだ。」
祈ることなしには、御霊による力がないのです。でも、祈った時に不思議なことが起こります。しかも、祈った時に御霊は内側に働きかけてくださいます。
(16)
どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
御霊は僕らが仲間のために祈る時に内側に働いてくださいます。外からは見えないけど、神様がその人の内側に働き、その人をしっかりキリストと繋がって強めてくださいます。20節も同じです。祈る時に、御霊は内側に力を持って働いてくださいます。
(20)
どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方
密室の祈りは見えません。でも結果は見えます。その人が内側から変えられ行動や発言が変わります。
祈りは全てが変わる鍵です。
さて、どう祈ったらいいかわからない方、朗報です。必ず聞かれる祈りがあります。聖書に書いていある祈りは神様から与えられた御心の祈りです。御心の祈りは叶えられます。
(1ヨハネ5.14-15)
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。
(…中略…)私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。
パウロは牢屋に入れられ、鎖で繋がれながら、エペソ教会のメンバー一人一人のことを感謝して祈っています。パウロが鎖に繋がれながらひざまづいて祈っている映像を心に想像してください。
そして、天ではその祈りが喜ばれ、パウロがエペソの教会にいかなくても、無限の御霊が天から鳩のように、油注ぎのように、エペソ教会に注がれ、メンバー一人一人が内側に力が与えられ、キリストの愛が天から注がれ、強くされ、人の力によらないことが起こっているそういう映像を心に作ってみてください。
パウロは天に祈っています。それによって主が答えてくださり天から御霊が無限に注がれ、愛が与えられている、そういうイメージです。
僕も神学校の先生から「祈りが本業。牧会は副業」と言われたことが今も助けになっています。パウロは自分が動いてエペソ教会にって指導して助けるよりも、祈りによって主の御霊が与えられ、一人一人の内側に働きかけてくださることを確信していました。しかも、祈りによって神様は思いを超えたことをなさると信じて祈っています。神様は僕らが思う以上のことを遥かに超えて行う方です。
(20-21)
20,どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、
21,教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。
人が成長するのはどうしてなのか、人にはわからない、とイエス様もおっしゃいます。全部が神様の力です。
(マルコ 4:26-28)
「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、
夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。
作物がどのようにして育つのかわからないのと同じように、神様によってのみ人は成長し、強くなり、御霊の実を実らせます。でも、肥料や水やりは必要です。それはみことばと祈りです。祈ってもらうことです。そして自分も祈ることです。主が一人一人を強くします。聖霊によって愛がわかり、その愛で満たされて、知恵が与えられ、神様の栄光が表されます。
最初から最後まで、栄光と力は神様のものです。僕らの願いや思いを遥かに超えたことを神様ご自身がしてくださいます。僕らのプランよりも、ずっと良いこと、高く、大きいことを神様がしてくださいます。祈りの結果は僕らの予想を遥かに超えたものです
(20-21)
20,どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、
21,教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。
※第二次世界大戦を経験した元兵士の話を聞きました。
戦場で一番怖いのは、戦車ではない。機関銃でもない。手榴弾でもない。
何だと思いますか?戦場で一番怖いのは、無線機だそうです。
敵が無線で、空軍を呼ばれ、場所を特定されて空爆されるのが一番怖いそうです。
同じように、どんな武器よりも強いのは、無線で神様に祈ることです。祈りです。どんな作戦より効果的で確実なのは祈りです。上からの力が注がれるなら、どんな方法よりも強く大きなことが起こります。
神様が上から御霊の力を注いでくださいます。「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方」だから、この方に語りかけ、無線で空軍を呼ぶように祈ること、どんなことよりも力があります。
自分でジタバタするより、まずは落ち着いて、誰もみていない部屋にこもってひざまづいて祈る方がいいのです。
●人知を超えた愛と力を体験するように
聖書の祈りは神様の願い、神様の御心そのものです。聞かれる祈りです。
実際、パウロが何を祈っているか聞いてみましょう。
(16-19)
16,どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
17,信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18,すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19,人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
祈りの中心は御霊の力と愛を体験し満たされることです。「キリストの愛を知ることができますように。」これが聞かれる祈りです。
「味を知る」は食べることです。味を覚える。これも同じ。「肌触りを知る」は触ることです。「曲を知る」は聞いて覚えて歌うことです。「人はエバを知った」は性体験をしたことです。続きにエバに妊娠と出産が書いてあります。(創世記4章1節ー2節) 同じように、「キリストの愛を知る」は愛を体験することです。知るとは体験することです。神様の願いは、僕らが神様の愛の力を実際に体験することです。それは僕らが思ったよりずっと大きい愛です。
4章以降は行いです。4章はキリストの体である教会がたてあげられ、5章では御霊に満たされて賛美し、互いに教えあうように、夫婦が愛し合うように、6章は親子が愛し合うように、奴隷と主人も愛し合うっように、そして悪魔に勝利できるように、と実践が続きます。
その実践を教える前に、ひざまづいて祈ります。キリストの愛がなければ、4章以降の教会がたてあげられることも、5章以降の賛美したり教えあったり、することも、夫婦の教えも親子の教えも愛がなければできないし、虚しいものです。
(17)
信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
キリストを住まわてくださいますように。クリスチャンの体にはキリストが住んでいます。御霊の住まいです。すでに住んでいます。聖書では住む、という言葉が二つあって、ここの「キリストが住む」というのは、完全にオーナーになってもらい、キリストの思い通りにしてもらう、そういう強い意味の「住む」です。信じたけど今はキリストを追い出している、とか、今は忘れている、とか、そういうことではなくて、いつも、何をしている時も、僕の心の全てにキリストが満ちている、そうなりますように、という意味の「キリストを住まわせてくださいますように」という祈りです。
キリストが僕らの人生の主人になる時、僕らの行動はキリストの愛を表すようになります。キリストの愛を実際に行います。キリストがしてくださったように、そのように僕らもするようになります。キリストの愛とは、体験だし、行いだし、選択です。本で知ってる、とか、メッセージでこう言ってたよ、ではない。キリストがなさることを自分もやるようになる、これがキリストの愛を知るという意味です。
キリストの愛と言うのは犠牲です。相手のために自分が死ぬってことです。罵る人ために自分が血だらけになって赦すと言うありえない愛です。この愛がキリストの愛です。
唾をかけられる者のために祝福を祈ると言うイエスさまが、私たちの心に住み、オーナーとなり、そして、その愛に根差し、その愛が土台となり、僕らもキリストと一緒にその愛を表すものとなることです。
この「愛に根ざす」とあります。根ざすとは、そこから出て成長していることです。
唾をかけられるものを祝福し、敵をゆるし愛することです。キリストの愛は大きすぎて、深すぎて、理解を超えています。まさに人間の理解を知識を遥かに超えています。
(18-19)
18,すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19,人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
キリストが犠牲になってくださったことが、根です。この根から全てが出ます。
このキリストの十字架の愛が土台となって、4章以降は教会を建て上げ、夫婦が愛し合い、兄弟姉妹が、親と子が、労働者と経営者が愛し合うようになります。ただ、イエス様の愛を知るだけでなく、情報を持っているだけでなく、御霊によって愛が注がれ、満たされ、それを表す人になっていくことです。
この世ではあり得ない愛です。
これは多くの人の目標と違います。多くの人は自分が安心して自分がうまくいって、自分が癒されて、自分が天国に行けて、自分が自分がって言うけど、はるかにそれを超えたイエス様の愛は違います。
自分じゃないんです。全て奪われて、自分が裸にさせられて、殺されて、そうやって十字架の上で敵を赦し、祈り愛していく。まさに人間の理解や力を遥かに超えたことが行われます。
(19)
人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
人間には作ることができない愛です。このキリストの愛が与えられるなら僕らは変えられます。クリスチャンは、成長すると、どんどん自分の損得を手放し、自分の権利を手放していきます。神さまを愛することは自分を捨てることです。愛を知る、愛を体験することは、自分を捨てて明け渡して、神様に用いていただくことです。
キリストと一緒に死んで、自分に唾をかける人たちを愛していくと言うありえない愛に向かっていきます。
私たちは自分が上に行くことを求めますが、キリストの下に下に行くんです。
他人がが生かされ、自分が死んでいくこと、自分が忘れ去られていくことを願います。その結果、神様の栄光だけが崇められることを願います。
マウントをとりたがる世の中と間逆です。私たちが願うところ、思うところを遥かに超えているのが神様です。そして、それを行わせてくださるのが御霊の力です。
家庭や夫婦関係の問題があります。同僚との問題があります。それは単なる性格の不一致とかビジョンの違いではありません。キリストの愛が出てないことことが問題の根です。
自分を捨てる愛は、キリストの愛だけができることです。
「もっと愛せたらいいのにな」と思います。このキリストの愛は、御霊によって内側が強められ、心も体もキリストに明け渡す時に、現れてます。自分を明け渡すなら、キリストの愛があなたの人生に浸透し、支配し、判断力も、発言も、行動もキリストの愛を表すようになります。僕らの願いや思いを超えた愛と力の体験です。
(20-21)
20,どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、
21,教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。
イエス様がゲッセマネで祈った祈りも同じです。
(マルコ 14:36)
わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
イエス様が教えくれた祈りも同じです。
(マタイ6.10)
「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」
御心がなるように、つまり、「私の計画や願いがならないように。」僕の支配がならないように。キリストが王様として支配されますように。僕が誉められませんように、という祈りです。
キリストの名が崇められるように、そう祈ります。
これはイエスキリストの愛です。自分が血だらけになり、唾をかけられ、他の人たちが生かされる、それが私たちの成長であり、そして目標です。
このイエス様の愛に根ざし、そこから行動が出る人は強いです。この世の人はなんで言い返さないの、誤解されたまま弁解しないの、と不思議に思います。
これが御霊によって強められると言うことです。あの十字架で罪人を愛し赦し祈ってくださったイエス様の愛を体験するチャンスは、僕らが傷つけられた時、人から悪く言われたとき、迫害を受けた時、思い通りにならなかった時です。愛を知るとは、愛を体験する、やってみる、ということです。
攻撃を受け、罵られても、イエス様と一緒に忍耐し、父よ彼らをゆるしてください、と祈ります。
御霊によって内なる人が強められる事は、イエスキリストと一緒に死んでいき、その先に栄光があることを確信することです。そこに悲壮感がありません。栄光を受けるものになるからです。
キリストの愛に根ざしキリストのその高さ長さ。深さを知っていく事は体験です。
キリストと一緒に傷つけられ、キリストと一緒に敵を赦し、愛する体験です。
キリストと一緒に死んでいく人生です。その先には悲惨な惨めな最期ではなく栄光が待っています。
この世界の教えと全く正反対です。イエス様が何度もおっしゃいます。
「互いに愛し合いなさい」でも、その前にいつも「私があなたがたを愛したように」とあります。
キリストの愛は犠牲です。キリストの愛は相手のために自分を手放し死ぬことです。お互いにいい感じになることとは違います。
どんな人と結婚したいですか?仕事が順調で、給料がいい人。優しい人。包容力のある人。健康で体力のある人。綺麗な人。一緒にいて安心できる人。楽しい人。それも大事だし正直です。もし、その基準だけならキリストを知りません。結婚相手は、自分にとって利用価値があるかどうか、というだけの判断です。どんな人と結婚したいですか、御霊によって強くされ、キリストの愛に根ざす結婚は、その質問は誰のためにあなたは自分を捨てて仕えていきますか、という問いです。
どんな相手のためにあなたは自分を捨てて愛し、赦し、祈り、支えますか、ということです。これがキリストの愛に根ざす結婚です。
利用価値があるかないかではありません。
これは聖霊によらなければあり得ない愛です。キリストの愛と力は人知を超えています。僕らからは絶対出てこない愛と力がキリストによって、御霊によって与えられます。祈りは聞かれます。与えられます。
敵のために血だらけになって死んでくださって、神の呪いや怒りも受けてくださったそのキリストが、あなた方の中に住んで下さるようにというのが願いであり祈りです。
十字架を見上げるときに、僕らはへり下り、自分を正しいと思い、他の人を見下していた自分が恥ずかしくなります。
神様に希望を持って敵を赦し、愛し、忍耐することの先に、どれほどの栄光が神様の喜びがあるかこれをパウロは既に祈ってます
(エペソ人への手紙 1章18節)
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、
イエス様が罪人を愛するために、自分が自分の命を捧げ死んでくださった、でも、その先にとんでもない栄光をお持ちのように、僕らもキリストと一緒に自分を明け渡すなら、悲惨な最後ではなく、キリストの栄光を一緒に持つようになります。忍耐とは栄光を見続けて今は悪者にされても、それを受け入れることです。その先の勝利を知っているから、希望があるからです。
それが御霊によってそれが内なる人が強くされることです。
本当の記録は評価は、天にあります。だからパウロは「あなたがたが私について何を言おうとも、それは小さなことだ」と言っています。人生の評価は神様が私たちの人生を評価する時まで待たなければなりません。そして、忍耐して愛するときに、キリストの愛を表す人生を送るときに、神さまから称賛と栄光を受けることになります。
●適用
人には持ち時間があります。一日24時間です。全員そうです。御霊によって強くされ、キリストの愛を知って人知を超えたことを体験するには、時間を取り分けて御霊によって祈ることです。
どのように時間を使っても自由です。でも、御霊に明け渡し、キリストの愛の高さ広さ深さを知り、体験したいなら、そのために時間を使って御霊によって祈ることです。絶えず祈りなさい、どんな時にも祈りなさい、感謝しなさい、と神様が願っておられます。
(1ヨハネ5.14-15)
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。
(…中略…)私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。
密室の祈りは見えません。でも結果は見えます。
僕らが思う以上以上のことを神さまはなさろうとしています。
祈りこそ成長の鍵。御霊を求め委ねることこそ成長の鍵です。
僕らも祈りましょう。ぜひ、「あなたがた」のところに隣人の名前を入れて毎日祈りましょう。祈り方のお手本です。○○のところに教会の仲間、家族、今はまだ敵対している人がいるなら、その人の名前を入れて心から祈りましょう。
(16-19節)
「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもって〇〇さんを強めてくださいますように。信仰によって、〇〇さんの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いている〇〇さんが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、〇〇さんが満たされますように。」
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