2024年10月9日水曜日

イザヤ27章

 イザヤ27章


「献身」と聞くと、なんだか出家して苦行に入るようなイメージがあるみたいですが、実際はそれとは正反対です。献身とは、自分の全てを神様に預け、神様にだけ支えられ、神様にだけ守られることです。献身とは牧師や宣教師になることではありません。牧師になっても献身してない人はいるし、普通の教会のメンバーでも献身してる人はたくさんいます。献身の結果は安心と喜びと成長です。神様の愛と守りと祝福は完璧です。献身は神様に頼りきる喜びです。僕らが思う以上のことを神様は用意しておられます。



(イザヤ書 27章2~3節)

「その日、麗しいぶどう畑について歌え。

わたし、主はそれを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも害を加えないように、夜も昼もこれを見守る。



神様はイスラエルのことを「麗しいぶどう畑」と言われます。神様は昼も夜もずっと見守り、必要な水を注ぎ続けてくださいます。その安全と成長は神様の喜びです。同じように神様は僕らのことを愛し、守り育ててくれます。もしも悪い雑草が少しでも入るなら、神様は徹底してそれを踏み潰し焼き付くしてしまいます。



(4節)

わたしにもう憤りはない。もしも、茨とおどろがわたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。



そもそも、悪の根源である悪魔はイエス様によって処刑が確定しています。今現在、悪魔は悪あがきしていますが、預言者イザヤは、そのことを確定事項として書いています。



(1節)

その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタンを、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。



献身は、守り、愛し、育ててくれる神様にすべてをゆだねることです。そのためには、もし神様に喜ばれていないものがあるならば、それを捨てて神様に従うことです。それが神様との和解です。その結果、ますます愛され成長し、花を咲かせ、実で満たされます。



(5~6節)

あるいは、もしわたしという砦に頼りたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。

時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面を実で満たす。」



この祝福を失うものは、神様以外に頼ろうとするものです。それは敵とみなし、ゴミのように捨てることが大事です。



(9節)

それゆえ、次のようにしてヤコブの不義は赦される。祭壇の石をすべて、粉々にされた石灰のようにし、アシェラ像と香の台を二度と立てなくすること、これが、自分の罪を除いて得る実のすべてだ。



こんなに完全な保護と愛と成長と祝福があるのに、この世の偶像に心を寄せ興味を持っている場合ではありません。完璧な夫であるキリストと結婚しているのに、密かに他の男と連絡してる場合ではありません。何の役にも立たないどころか、祝福と成長と安全を邪魔するだけです。


献身とは苦行ではありません。その反対です。全てを神様に預け、神様にだけ支えられ、神様にだけ守られることです。それは神様の愛と祝福と喜びに満たされることです。今日も献身しましょう。邪魔なものは捨てましょう。思った以上の喜びと祝福が待っています。ハレルヤ!




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