2024年11月19日火曜日

イザヤ45.20-25 メッセージ 「わたしを仰ぎ見て救われよ」

 イザヤ45.20-25 メッセージ 「わたしを仰ぎ見て救われよ」

クリスチャンになって信じた時は「イエス様ありがとう!私の罪は赦された!」と思うけど、クリスチャンが長くなるとイエス様以外のことを考えはじめたりします。私はもっとこうでなければ、とか、私は頑張ってるのにあの人はどうだ、とか、この教会はどうだ、あの牧師はどうだ、などです。もちろん人間なので問題でモヤモヤすることはあります。でもその解決や救いをイエス様以外に求めるならそれは愚かだ、イエス様以外には救いはない、と聖書は言います。


(ガラテヤ 3:1)

ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。


今日のメッセージは基本に戻してくれる、そして神様の願いを私たちの願いとし、神様のビジョンを私たちのビジョンとするようなメッセージです。


⚫︎他に神はいない


神様でなく、周りを見ると恐れ、怒り、不安になります。自分を見ればがっかりします。


イスラエルは国としてそのような状態でした。神様を知りつつも、不安になると他にもっと自分たちを救ってくれるものを求めました。他に神はいないし他の神を作っても拝んではいけないことは知って今井sた。それは偶像です。でも、周りの国は、偶像で繁栄している気がします。軍事力で勝利している気がします。それでイスラエルも真似をして木や金や銀で作った神様を作り、拝み、他国の軍隊を求め、本当の神様を裏切ることになりました。その結果は悲惨です。イスラエルは外国に侵略され、バビロンに捕えられ、国を失います。


70年間苦しみ、その苦しみの中で自分たちが神様を裏切り偶像を求めてきたことがどんなに愚かなことだったかを学びます。70年もかかる苦しいレッスンを受けました。

そして70年後、もう一度神様はこの場所に返してくださいます。そのことを神様があらかじめ預言してくださった言葉です。


(イザヤ書 45章20~21節)

"諸国からの逃亡者たちよ。集まって来て、ともに近づけ。彼らは自分たちの木の偶像を担ぐ者、救えもしない神に祈る者たちで、知識がない。

告げよ。証拠を出せ。ともに相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない。"


僕らも人ごとではありません。神様を忘れてさまようことがあります。何かで幸せになりたい、満たされたいと探したりします。御霊に満たされることよりも人に頼ったり、自分の知恵や力に頼ったり、お金に頼ったり、楽しいイベントを求めたり、よくあることです。


神様が与えてくださったものはみんな良いものです。食べることも、楽しむことも、音楽もお金も仕事もあの人もこの人も、あの方法、この方法も、みんな神様が与えてくださったものです。感謝して楽しむことは100パーセントいいことです。…が、いつの間にかそれが神様より重要になって、まるで自分を救う偶像のようにそれを拝み、頼ろうとします。


大学生の時までずっと虚しかったです。何をしても虚しかった。心に穴が空いている感じがしました。何を聞いても、何をみても意味がなく色褪せて見えました。本当に自分を満たすものはなんだろう、と思っていました。絵にするとこんな感じです。




今日の箇所は神様以外に神はない他にはないとことを強調しています。


(21-22)

わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない。"

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"


自分たちが作ったもので救われようとする人は恥を受けます。満足に見えても、救いに見えても一時的です。最後には辱めを受け、偶像と一緒に消え去ります。この世の楽しみや強やも一時的に神様が与えてくださった良いものですが、それが永遠の救いをもたらすのものではありません。


(16-17)

偶像を細工する者どもはみな恥を見、辱めを受ける。彼らはともに、辱めのうちに去る。

イスラエルは主によって救われ、永遠の救いに入れられる。あなたがたは恥を見ることも辱めを受けることもない。永遠に至るまで。


偶像を作り、偶像に頼る人はそれが消えていく時に一緒に消えてしまいます。

これはイスラエルだけでなく、全ての人間に言われていることです。


🙆‍♀️イエス様を見上げて救われよ


(イザヤ書 45章22節)

"地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"


新約聖書はこの箇所を解説して、この神様こそイエスキリストだと言います。(ピリピ2章)

みことばは、「わたしを仰ぎ見よ」と言います。大事なことはいつも十字架のイエス様を見上げることです。いつもです。クリスチャンになったら今度は自分の信仰生活にに注目して落胆したり高ぶったりすることがあります。


「ああ、私は十分に悔い改めていない」と言います。それは自分を見ています。「私は十分に信じていない」と言います。それも自分を見ています。見えるものは自分や周りの欠点や問題ばかりで、それをいくら並べても問題点を分析しても救いがありません。そこに平安を見いだすことはできません。イエス・キリストは、『わたしを見よ』と言われます。今すべきことはキリストを、あの血だらけになって赦してくださったイエス様を見ることです。「わたしを仰ぎ見て救われよ」と書いてあります。


イエス様だけがあなたの罪を赦し、あなたが出来なかった正しいことを、すべきことを全部成し遂げてくださいました。正しい方はイエス様だけです。そして、僕らに赦しと、新しい力と、完全な正しさを与えきよさを与えてくださるのイエス様だけです。このイエス様を見上げ、信じる人は、イエス様と繋がり、イエス様と同じように正しいと宣言され、完全な赦しをいただき、復活したイエス様と一緒に永遠に生きます。イエス様のものは僕らのものです。イエス様と僕らは繋がっています。


誰もが自分に目を向けたがり、他に目を向けたがります。それで高ぶったり落ち込んだりします。十字架を見なさい、血にまみれてあなたを赦し、きよめてくれたイエスを見なさい、です。今、生きていて全ての権威を持っているイエス様を見なさい、です。回復を与えてくれるイエス様を見なさい、です。

自分を見ている限り、そこには希望がありません。周りを見ている限り、そこにも希望はありません。自分がどんな者かを考えることではなく、神がどんな者でありるか考えることです。周りのことを考えることでなく、イエス様がどんな者であるかを考えることです。視点を自分からイエスに変えること、それが必要です。


溺れている人が、見るべきは助けに来てくれる人です。溺れている自分を見ても救いはありません。僕らはイエス様を見上げます。溺れている自分を見ても、他に溺れている人を見ても救いになりません。僕らは自分で自分を救うことも癒すこともできません。溺れている人は溺れている人を救うことはできません。



聖書の教えはたくさんありますが、それを聞いた時に、僕には出来ない、神様の教えには程遠い、と感じます。それは健全です。


(ガラテヤ 3:24)

こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。


(ローマ 5:20)

罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。


罪悪感を感じたときに、イエス様を見上げます。敗北感を感じた時に、イエス様を見上げます。イエス様は十字架の上で、友よ、あなたの罪は赦された、と宣言してくださっています。100個罪のある人は100赦されます。1000個罪を犯した人は1000個許されます。罪が増し加わるなら、恵みも増えていきます。


救いはイエス様を見上げ信じた時にスタートします。しかも、それで一丁上がりではありません。一生かけて救いは完成していきます。自分の罪と神の聖さについての理解が深まると、他にも深まるものがあります。それは、自分の惨めさです。その時に見上げるべきはイエス様の十字架です。そして、僕らはイエスさまによる完全な赦しときよめ、愛を感謝します。復活のイエス様がわたしはあなたと一緒にいる、恐れるな、とおっしゃいます。罪が多ければ多いほど、失敗と傷が多いほど、イエス様を見上げ、イエス様に赦され、イエス様に憐れみを求める機会が多くなります。救いは生涯かけて達成します。聖書は「救いを達成してください」と言います。(ピリピ2.12)



(出典 キリスト聖書神学校「福音中心の生活」)

罪の自覚は一生続きます。それは、神様の聖さに目を開かれ、知っていくからです。神様の聖さは大きさは無限です。それを一生かけて知って行きます。すると、自分がいかに罪深く、ふさわしくないか、も一生かけて知ってきます。


(イザヤ書 45章22節)

"地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"


※悪い例。


神様のきよさ、義を知るほどに、僕らは背伸びをしたり誤魔化したり、十字架のイエス様を見上げること以外で救われようとすることもあります。



神様の義やきよさに到達するために、自分の行いによる義を求め、十字架を小さくすることがあります。


私はよく働くから… 私は親としてよくやっているから‥ 私の神学は良いから… 私は多才で明瞭に話すことができるから…私は貧しい人や恵まれない人をきちんと気にかけているから…お金を賢く管理しているから…自分とは意見が違う人にも心を開いているから… などは自分の行いによる義です。


もちろん、働くことも、親の役目を果たすことも、神学を学ぶことも、貧しい人を気にかけることも良いことです。それは自分から出たのでなく神様が与えてくださっている良いものです。最初から最後まで神様の恵みです。


今、生きておられるイエスを見上げることがないといつも自分の正しさ、自分の義、自分の力に注目してしまい自分の良さで救われようとします。聖書は言います。正義と力はただ主にあります。


24,わたしについて、『ただ主にだけ、正義と力がある』と言う。

25,イスラエルの子孫はみな主によって義とされ、主を誇りとする。」


誇り、頼り、感謝すべきはイエス様だけです。十字架で死に、復活して今一緒にいてくださる、聖霊によって新しい心を与え続けてくださっているイエス様を見上げて救われよ。です。


(イザヤ書 45章22節)

"地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"


CBIに見学に行ったら、CBIで出版している本をいただきました。無料で配布しているそうです。本当に良い本でした。CBIの物販サイトに行ったら無料で購入できます。自宅に届きます。

その中にイエス様によって子供とされた人と、イエス様に頼らず自分で生きていく孤児の特徴のチェックリストがありました。

神様の言葉はイエス様によって受け入れられ、イエス様の十字架に頼る人。

そうでない人は自分の頑張りで生きる孤児。

イエス様を見上げず、イエス様の十字架を忘れている人の福音を見上げない人の特徴のリストがありました。


当てはまるかどうか、チェックを入れてみてください。

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よく見られたい。

よく見られなければならないと思います。

いつも不安です。

いつも罪悪感があります。

問題は自分で解決しなければならないと思います。

失敗や弱さを指摘されると、守りの姿勢になり時に攻撃的になります。

自分が正しくなければと思います

自信がありません

自分のやり方、考え、意見にこだわります

他の人の弱点や欠点を分析するのが得意です

地位に満足を見出そうとします

所有物に満足を見出そうとします

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聖書は、十字架以外で救われようとする人のことを愚かな人(馬鹿な人)と言います。自分の力できよさや救いを達成しようとする人も馬鹿な人だと表現します。


(ガラテヤ人への手紙3章)

1ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。(…中略…)

3あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。


イエス様を見上げて救われるとは。


1神様の教えを守れない自分の愚かさを認識すること。

2イエス様だけが完全であり、正しい方であり、神様に完全に従った方であることを見上げること。

3そのイエス様と繋がり、ゆるされ、きよめられ、変えられ途中であることを信じること。


(21-22)

21,告げよ。証拠を出せ。ともに相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない。

22,地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。


他に救いはありません。


(使徒 4:12)

この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」


🙆‍♀️全ての人を招いている主。


(22)

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"


地の果ての全ての者に言われています。

神はすべての人を救いたいと願っています。そして、この福音を、この救いを全ての人に伝えなさい、と言われます。



(マルコ 16:15)

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。


今や、この喜ばしい救いの知らせを世界中に広める使命は教会に委ねられています。どんな人でも、このイエス様の十字架によって救われます。こないだ行った世界宣教の学びで、ようやく初めて神様のビジョンがわかった気がしました。


聖書が最初から最後まで伝えている神様の壮大なビジョンはすべての人が膝をかがめ、イエスキリストは主です、と言ってイエス様をほめたたえることです。

信じる人も信じない人も、やがてイエス様がこられたときには、膝をかがめて、ある人たちはものすごく後悔し、ある人は喜んで感謝して膝をかがめる日がきます。


しかも、イエス様は滅ぼすために来たのではなく救うために来た、とおっしゃっています。神様の願いはすべての人がこのこの真理を知って救われることです。イエス様の十字架によってどんな人でも赦され、受け入れられることです。この福音を地の果てまでも伝えなさい、というのが神様の願いです。


(イザヤ書 45章22節)

"地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"


宣教師の90%以上が既に伝道されている民族の中で働いているそうです。そして全く伝道されていないところに行って伝えている人は10%以下だそうです。


既に知らされているところにたくさんの力が注がれていて、そして伝わっていないところには力が向いていない、というアンバランスが指摘されていました。


(22)

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"


神様の願いは地の果ての全ての人の救いです。そして、地の果てにまで伝えるのはイエス様につながる僕ら教会の役目です。


世界はどんどん変わって、世界中に人々が移住する時代だそうです。日本にもたくさんの移住者が現れて、そしてうちの町内にもたくさんの外国人労働者がいます。伝道することが許されないイスラムの国とか、そういう人たちが日本に移住しています。移住者と言うのは、自分たちの居場所を手放しながら動く人たちなので、いつも新しい人間関係、そして新しい文化に対して心を開いている人たちだそうです。だから日本に来ている移住者たちはオープンで、外国に宣教に行かなくても、もう、玄関先まで伝えるべき人たちが来ている時代です。


(イザヤ書 45章22節)

"地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"


地の果てに僕らが行かなくても、地の果ての人たちがウチの周りに、玄関先に来ている時代です。祈って伝える必要があります。僕らの力ではないです。最初から最後までイエス様の力、イエス様の恵み、イエス様の愛です。イエス様の愛と力は聖霊によって与えられています。


(使徒 1:8)

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」


イエス様がこれを言われた時、イザヤ45章をイメージしていたのかな、って思います。

イエス様を見上げましょう。これからも戦いはあります。がっかりすることもたくさんあります。でも、イエス様を見上げましょう。十字架を見上げましょう。最初から最後まで見上げるべきは自分ではなくイエス様です。宣教するのも伝えるのもイエス様の力と愛と恵みです。


イエス様を伝えましょう。全ての人が救われることは神様の願いです。


(22節)

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"







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