2024年12月6日金曜日

イザヤ64章

 イザヤ64章


クリスチャンにありがちな誤解や誘惑があります。自分が良い人間になったかのように高ぶり、周りを見て批判したり、諦めたり、さばいたりすることです。特に信仰から落ちていく人たちに対して見下しがちです。


イエス様はいつも「私は」と祈らないで「私たちは」と祈るように教えてくださいました。(マタイ6章)イエス様の願いは他の人の罪を自分のことのように悲しみ、告白し、祈ることです。あの人の罪は私たちの罪です。預言者イザヤは、不潔な生活をしているイスラエルの周りの人たちのことをまるで自分のことのように「私たちはみな、汚れた者のようになり…」として告白し祈っています。



(イザヤ書 64章6~7節)

"私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎は風のように私たちを吹き上げます。

しかし、あなたの御名を呼ぶ者はなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎によって、私たちを弱められました。"



神の怒りによって滅ぼされても当たり前です。この時代はすでにエルサレムもその神殿も廃墟となっている悲惨な状況でした。原因は「あの人の罪のせい」ではなく「私たちのせい」です。



(イザヤ書 64章10~11節)

"あなたの聖なる町々は荒野となっています。シオンは荒野となり、エルサレムは荒れ果てています。

私たちの聖なる美しい宮、私たちの先祖があなたをほめたたえたその場所は火で焼かれ、私たちが宝とした所は、すべて廃墟となりました。"



それでもイザヤは祈ります。怒らないでください、罪を覚えていないでください、あなたの子どもたちです、あなたが陶器師としてお作りになった作品です、思い出してください、と祈ります。



(イザヤ書 64章9節)

"主よ、どうか激しく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えていないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください。"



僕らにも、汚れた生活をしている仲間がいます。家族がいます。子どもがいます、牧師には信徒がいます。それぞれに心の重荷となっている人たちがいます。僕らは祈る役目が与えられています。彼らが不潔な生活をし、罪に落ちていくことを悲しみ、祈る役目です。誰よりもイエス様が忍耐して、今日も大祭司として祈ってくださっています。(ローマ8.34、ヘブル7.25)モーセもイスラエルが罪を犯すたびにひれ伏して神様に赦しを願いました。(民数記14.5、16.4、20.6など多数)僕らも今日、あの人の罪もこの人の欠点も自分のこととして祈りましょう。「主よ、どうか激しく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えていないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに、目を留めてください」


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