2025年1月31日金曜日

ルカ9.1-17

 ルカ9.1-17


保険とはうまくいかなかった時に備えて、別の手段を用意することです。ところが、イエス様に関してはうまく行かないとか、失敗することがありません。だから、他の手段とか保険を用意する必要がありません。イエス様は弟子たちにお金も服も食べ物も予備を持たないで行きなさい、と教えました。神様を第一に求める時に必要はすべて与えられるからです。(マタイ6.33)



"イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。

「旅には何も持って行かないようにしなさい。杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません。"

(ルカの福音書 9章1~3節)



何も持っていないイエス様と弟子たちに大勢の群衆がついてきます。「イエスは彼らを喜んで迎え、神の国のことを話し、また、癒やしを必要とする人たちを治された。」(11)…ですが、弟子たちは心配です。日暮れも近いのに食べ物はなく、帰宅困難な田舎にいるからです。集団で遭難することになったらどうしよう…と思います。



"日が傾き始めたので、十二人はみもとに来て言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、彼らは周りの村や里に行き、宿をとり、何か食べることができるでしょう。私たちは、このような寂しいところにいるのですから。」"

(ルカの福音書 9章12節)



イエス様は「何も持って行かないように」おっしゃっていたし、弟子たちには食べ物がありません。ある少年が「大麦のパンを五つと小さい魚を二匹」(ヨハネ6.9)だけ持っていたようです。それでもイエス様には不足がありません。イエス様は今あるものを人々に分け与えるようにとおっしゃいました。



"すると、イエスは彼らに言われた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚しかありません。私たちが出かけて行って、この民全員のために食べ物を買うのでしょうか。」

というのは、男だけでおよそ五千人もいたからである。しかし、イエスは弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい。」

弟子たちはそのとおりにして、全員を座らせた。

そこでイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ、それらのゆえに神をほめたたえてそれを裂き、群衆に配るように弟子たちにお与えになった。

人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二かごあった。"

(ルカの福音書 9章13~17節)



イエス様は、僕らの計算や心配を遥かに超えています。しかも、イエス様には不足も失敗もありません。従う時に別の保険は不要です。僕らも心配しないで人々に与えましょう。時間も力もお金も神様のものです。信じて従う時に栄光を体験することができます。大丈夫です。ハレルヤ!

2025年1月30日木曜日

ルカ8.40-56

 ルカ8.40-56


僕らは、祈ったり求めたりするときに「御心にかなうなら」とかいろいろな理由をつけて、神様の力を弱めようとしたり、納得できる安全範囲に小さく考えようとしがちみたいです。信じることは、神様のみことばに完全に降参して、そのまま足したり引いたりしないで自分をゆだねきることです。


娘が死にかけていて、助けてください!とイエス様にお願いしたお父さんに連絡が来ました。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」(49)ところがイエス様は言われます。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」(50)死んだ連絡が来ても、イエス様は恐れないで信じるように言われます。ヤイロは信頼してイエス様を家にお連れします。



(52-53節)

人々はみな、少女のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」

人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。



自分の理解の範囲を超えてくるイエス様は認めたくないし、信じられないのが人間です。人々がイエス様をあざ笑ったのも当然です。ところが、イエス様は僕らの決めつけを遥かに超えています。



(54-55節)

しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。「子よ、起きなさい。」

すると少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。それでイエスは、その子に食べ物を与えるように命じられた。



信仰とは、神様に降参し、献身的に行動することです。信じたことは行動に現れます。もう一人、信じて行動した病気の女性がいました。



(44節)

彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。



この女性は「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたようです。(マタイ9.21)そして、イエス様は彼女に言われます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(ルカ8.48)信じることは行動することです。「信じます」と言いながら、「どうせウチの娘は癒されない。」とか、「どうせ私の病気は治らない」といって何もしないのは矛盾しています。イエス様は言われます。「信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコの福音書 9章23節)神様の言葉に権威があります。その通りになります。僕らが調整して自分の納得できる範囲に収めようとする必要はありません。今日もイエス様のみことばをそのまま求め信じて従いましょう。その通りになります。それが信仰です。信じた通りになります。ハレルヤ!



2025年1月29日水曜日

ルカ8.26-39

 ルカ8.26-39


人を避け、自分を嫌い、死にたいと願い、自分を傷つけている人はたくさんいます。2024年の子どもの自殺者数が最高記録を更新し、これは日本が世界一だそうです。「世全体は悪い者の支配下にある。」と聖書は言います。(1ヨハネ5.19)また悪霊は人の中に住んで悪い働きをします。そのことを聖書は空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊」(エペソ2.2)と表現します。悪魔と悪霊は人を傷つけ、人間関係を壊し、孤独と死に向かわせます。この世界のすべての悲しみと悪の根底には、悪魔の働きがあります。



…ですが、イエス様を知っている僕らは全く恐れる必要がありません。逆に、イエス様を恐れているのが悪霊です。悪霊はイエス様の動向に敏感で「こっちに来ないで!」と願っているかのようです。イエス様が悪霊に取り憑かれた人を救うために舟で岸に着くと、悪霊はイエス様を恐れひれ伏し、命乞いをします。イエス様が行く場所ではいつもそうです。(マルコ1.23、ルカ4.33、マルコ3.11、ルカ4.11など多数)



"こうして彼らは、舟で、ガリラヤの反対側にあるゲラサ人の地に着いた。

イエスが陸に上がられると、その町の者で、悪霊につかれている男がイエスを迎えた。彼は長い間、服を身に着けず、家に住まないで墓場に住んでいた。

彼はイエスを見ると叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。お願いです。私を苦しめないでください。」"

(ルカの福音書 8章26~28節)



悪霊が怖がっているのは、イエス様に一言、「底知れぬ所に行け」と命令されることです。「底知れぬ所」とは、悪魔と悪霊の牢獄です。いつかそこに閉じめられることは確定しています。悪霊はそれをわかっていて「まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」(マタイ8.29)と言い、「底知れぬ所に行けと自分たちにお命じにならないようにと懇願」しています。(ルカ8.31)



悪霊は人の体を乗っ取り、その人の願いではないことをさせます。人は悪霊によってめちゃくちゃな人生にさせられます。意思に反して、しかも自分の力ではない破壊的な力が与えられてしまいます。「彼は鎖と足かせでつながれて監視されていたが、それらを断ち切っては、悪霊によって荒野に駆り立てられていた。」(ルカ8.29)



悪魔は神様になりたがり、神様のマネをします。神様はイエス様の聖霊を僕らの体に住まわせてくださり、僕らは自分の思う以上に良いことをする力が与えられています。そして、僕らが思う以上に神を愛し、人を愛するようになります。悪魔が悪霊を遣わすのはそれと正反対です。その人に住み、神を憎み、悪を愛し、死を愛し、自分で自分を傷つけるようにしていました。



"それで、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである。"

(マルコの福音書 5章5節)



悪霊はイエス様に従うしかありません。悪霊が活動できるのは、イエス様の許可の中だけです。(ヨブ1.12など多数)この時も悪霊どもは、豚に乗り移ることをイエス様に懇願しイエス様の許可の中だけでそれができました。



"ちょうど、そのあたりの山に、たくさんの豚の群れが飼われていたので、悪霊どもは、その豚に入ることを許してくださいと懇願した。イエスはそれを許された。

悪霊どもはその人から出て、豚に入った。すると豚の群れは崖を下って湖へなだれ込み、おぼれて死んだ。"

(ルカの福音書 8章32~33節)



イエス様の御霊が僕らの体に住んでおられます。僕らの体はイエス様の住まいです。僕らが行くところ歩くところ、いつもイエス様がそこにおられます。僕らは悪霊を恐れる必要がありません。

イエス様は弟子たちに悪霊を追い出す権威を与えてくれました。これはイエス様の権威です。イエス様は弟子たちに言われます。「病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。」(マタイ10.8)弟子たちは喜んで報告しました。「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」(ルカ10.17)


今日もイエス様の中で安心してましょう。時にはイエス様の御名によって悪霊が出ていくように祈りましょう。イエス様の権威には悪霊は服従します。この世界はイエス様のものです。悪霊が早くこの世界から完全に出て行きますように。全ての人が悪霊の住まいでなく、聖霊の住まいになりますように。ハレルヤ!

2025年1月28日火曜日

ルカ8.22-25

 ルカ8.22-25


イエス様を信頼しないと怖がりになります。逆にイエス様を信頼すると安心します。恐れと信仰は反比例するようです。どんな怖い状況よりもイエス様は遥かに上だし、その状況を支配し従えておられます。イエス様に信頼するなら恐れは消え去ります。


自然は僕らを脅します。津波が町ごと消し去り、二万人近くの人たちが一度に亡くなったり行方不明になるのを僕らは見ました。元々、自然災害はなかったし、病気も死もないはずでした。全ては人間にも動植物にとっても良いものでした。自然が人間を苦しめるのは僕らが神様に背いた結果です。それでもイエス様はこの世界を見放してはいません。もう一度この世界に来られ、本来の姿に戻してくださいます。イエス様にはその権威があります。悪霊も自然界もイエス様には従います。



"ある日のことであった。イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、弟子たちは舟を出した。

舟で渡っている間に、イエスは眠り始められた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、彼らは水をかぶって危険になった。

そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言った。イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。

イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」"

(ルカの福音書 8章22~25節)



イエス様は恐れてはならないと何度も繰り返します。風や嵐よりも強い方だからです。この方が叱りつけると風も海も言うこと聞きます。どんな嵐もイエス様には恐れる相手ではありません。イエス様が願っておられるのは、僕らが恐れることなく支配者イエス様に信頼することです。僕らが怖がるのはイエス様を忘れているからです。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」(マルコ4.40)今日、どんなことが起こってもイエス様を信頼しましょう。どんな怖い状況も支配し従えておられます。大丈夫です!

2025年1月27日月曜日

ルカ8.4-15

 ルカ8.4-15


聖書は「耳のあるものは聞きなさい」と何度も繰り返します。情報の洪水の中で、本当にいのちがあり真理であるイエス様のことばを聞き分け、従うことです。みことばの情報リテラシーです。それは真理のことばを取捨選択する力、そして、得た情報が本当に正しいものか見極める力です。ヘブル語で「シェマ」(聞く)は、聞いて従うことも含むそうです。イエス様は言われます。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。(…中略…)そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10.27)イエス様のことばを聞き分け従う心のある人は、本当に神様の子ども、イエス様に愛される羊です。


神様のみことばはいのちのパン(食事)です。(マタイ4.4)それをちゃんと聞いて心に蓄え従う人は成長し、祝福の実を結びます。「彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。」(ルカ8.15)


ただ、ぼーっと聞くだけでは悪魔が来て、心からそれを取り去ってしまいます。奪われたことにも気がつきません。きれいさっぱり忘れてしまいます。イエス様は言われました。



"「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。"

(ルカの福音書 8章5節)



"このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。

道端に落ちたものとは、みことばを聞いても信じて救われないように、後で悪魔が来て、その心からみことばを取り去ってしまう、そのような人たちのことです。"

(ルカの福音書 8章11~12節)



悪魔はみことばを忘れさせようと働きます。だから神様のことばは毎日聞き続けることが大事です。食事と同じで「昨日食べたからいいや。」とか、「日曜に聞いたからしばらくいらんわ」という人は完全に栄養失調です。だのに、この世からの情報は毎日食べて吸収しています。それらは魅力的に誘惑し、また逆に心配させます。僕らの心を奪い、成長を止め、枯れさせ、永遠のいのち奪い殺そうとします。それがこの世のことばです。



"また、別の種は茨の真ん中に落ちた。すると、茨も一緒に生え出てふさいでしまった。"

ルカの福音書 8章7節



"茨の中に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らはみことばを聞いたのですが、時がたつにつれ、生活における思い煩いや、富や、快楽でふさがれて、実が熟すまでになりません。"

ルカの福音書 8章14節



悪魔はこの世の心配事で煽ってくるし、逆に儲けや快楽で満たそうとします。その中で神様のことばをちゃんと聞き分けるのが神様の羊です。どんなにこの世のことが大きく見えても神様のみことばを聞き分け、優先し、従うことです。そうすると永遠に枯れることのない実を結びます。



"また、別の種は良い地に落ち、生長して百倍の実を結んだ。」イエスはこれらのことを話しながら、大声で言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」"

ルカの福音書 8章8節



"しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。"

ルカの福音書 8章15節



前にいちど聞いた、とか、あれは感動した、嬉しかった、って過去の体験だけでは簡単に枯れてしまいます。



"また、別の種は岩の上に落ちた。生長したが、水分がなかったので枯れてしまった。"

ルカの福音書 8章6節



"岩の上に落ちたものとは、みことばを聞くと喜んで受け入れるのですが、根がないので、しばらくは信じていても試練のときに身を引いてしまう、そのような人たちのことです。"

ルカの福音書 8章13節



今日も僕らはいろんな情報にさらされています。その中で僕らを生かし祝福するのは真理であるイエス様のことばだけです。まず本当に聞く耳が与えられるように求めましょう。そして従いましょう。その人は枯れることなく100倍の実を結びます。ハレルヤ!




2025年1月23日木曜日

ルカ7.1-10

 ルカ7.1-10


あの有名な牧師に祈ってもらったら力が与えられ癒され解決する、って思いがちだし、熱心っぽい人に祈ってもらうと本当に力が与えられ癒しが与えられる体験をします。でも中心はその人でなくイエス様です。祈りのお手本は「ただ、(イエス様の)おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください」です。(ルカ7.7)癒しのことばはイエス様にあります。祈ってくれた人が有名かどうかは関係ありません。というか、用いられている牧師ほど脱力系なのはよくある話です。用いられているのは彼の力ではないからです。大事なのはイエス様のことばへの信仰です。信仰とはイエス様のみことばへの信頼です。

からだの明かりは目です。(ルカ11.34)何を見るかで僕らの全身の明るさ暗さが決まります。同じように何を聞くかで僕ら全身の明るさが決まります。求めるべき、聞くべきは人のことばでなくイエス様のことばです。


イエス様のことばは必ず実現します。これはリアルな現実です。「光、あれ」とおっしゃると光ができ、「起き上がれ」と言われると死人さえ起き上がります。僕らが求めるべきはイエス様のことばです。あの方法この方法でなくイエス様のことばです。みことばは現実となります。


ある隊長はしもべを癒してほしいと願いました。彼が求めたのはイエス様に来てもらって手を置いてもらうことでなく、イエス様のみことばです。イエス様が一言おっしゃるとその通りになるからです。



"そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた。ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。

ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。"

(ルカの福音書 7章6~7節)



イエス様のことばさえあれば癒されるとこの隊長は信じました。なぜなら自分のことばさえ、軍隊では絶対だからです。



"と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」"

(ルカの福音書 7章8節)



イエス様が家まで来てくれなくても「治れ」と言われると治ります。イエス様はその信仰をすごく喜んでくださいました。



"イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」

使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた。"

(ルカの福音書 7章9~10節)



祈る時に大事なことは僕らの願いや求めよりもイエス様のことばです。そして、イエス様が言われたことは既に受けたと信じてオッケーです。というより「すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」と言われてます。(マルコ11.25)僕の願いが実現するのでなく、イエス様のことばがその通りになります。祈っていると僕らの祈りの側がイエス様のことばと一つになっていきます。



山に向かって『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります。(マタイ21.21)これはスゴイ!ということではありません。イエス様がおっしゃったらその通りになることです。イエス様の願いは御霊の祈りです。そして、御霊は僕らの中におられます。イエス様の願いは僕らの祈りになっていきます。その時に山が動いても驚きではありません。イエス様が願った通りになるからです。


イエス様が病気を治してくれる、その言葉さえあればそのようになります。

僕らが祈る時、大事なのはイエス様の言葉を考えることです。イエス様がこの件についてなんておっしゃっているかを考えて求めることです。神様のことばを求めることと祈りや願いはセットです。祈りの中で神様のみことばが与えられたら、もうそれは実現します。

あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11.24)


病気の癒し、トラブルや恐れ、壊れた人間関係、敵の攻撃、すべての解決はみことばにあります。イエス様が願い、おっしゃった通りになるように僕らは祈ります。イエスはみことばを信じる信仰の祈りを喜んでくださいます。僕らの祈り方のお手本は「ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください」です。(ルカ7.7)ハレルヤ!



2025年1月22日水曜日

ルカ6.41-49

 ルカ6.41-49


友人の牧師が言ってました。「聖書は調べるものではなくて、自分の心を調べてもらうためのものです。」

また、アーミッシュの人たちは言うそうです。「聖書は自分自身を振り返るための鏡であって、他人の欠点を見つけるためのものではない。」

イエス様で満たされると他人がした悪を心に留めないようになります。(1コリント13.5)逆にイエス様とつながってないなら、他人のあら探しばかりしちゃうのが僕ら人間です。



"あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分自身の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。

あなた自身、自分の目にある梁が見えていないのに、兄弟に対して『兄弟、あなたの目のちりを取り除かせてください』と、どうして言えるのですか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって、取り除くことができます。"

(ルカの福音書 6章41~42節)



イエス様は僕らの中に住んでおられます。僕らは聖霊の宮です。(1コリント6.19)イエス様の御霊で満たされると自然と僕らの発言も行動もイエス様の願いと1つになってきます。ちゃんとしなきゃ、いいこと言わなきゃ、と頑張る必要はありません。



"良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともありません。

木はそれぞれ、その実によって分かります。茨からいちじくを採ることはなく、野ばらからぶどうを摘むこともありません。

良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。人の口は、心に満ちていることを話すからです。"

(ルカの福音書 6章43~45節)



イエス様に繋がっていると自分でも気づかないままにイエス様っぽい発言をし、その行いをしちゃうみたいです。僕らの発言も行動も心の現れです。イエスはぶどうの木、僕らは枝です。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15.5)


今日、僕らの内側がイエス様を求めイエス様で満たされますように。求める人は必ず与えられ満たされます。イエス様が僕らの全てです。僕らの口も手足もイエス様の器官です。一つにされていきますように!