2025年1月22日水曜日

ルカ6.41-49

 ルカ6.41-49


友人の牧師が言ってました。「聖書は調べるものではなくて、自分の心を調べてもらうためのものです。」

また、アーミッシュの人たちは言うそうです。「聖書は自分自身を振り返るための鏡であって、他人の欠点を見つけるためのものではない。」

イエス様で満たされると他人がした悪を心に留めないようになります。(1コリント13.5)逆にイエス様とつながってないなら、他人のあら探しばかりしちゃうのが僕ら人間です。



"あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分自身の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。

あなた自身、自分の目にある梁が見えていないのに、兄弟に対して『兄弟、あなたの目のちりを取り除かせてください』と、どうして言えるのですか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって、取り除くことができます。"

(ルカの福音書 6章41~42節)



イエス様は僕らの中に住んでおられます。僕らは聖霊の宮です。(1コリント6.19)イエス様の御霊で満たされると自然と僕らの発言も行動もイエス様の願いと1つになってきます。ちゃんとしなきゃ、いいこと言わなきゃ、と頑張る必要はありません。



"良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともありません。

木はそれぞれ、その実によって分かります。茨からいちじくを採ることはなく、野ばらからぶどうを摘むこともありません。

良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。人の口は、心に満ちていることを話すからです。"

(ルカの福音書 6章43~45節)



イエス様に繋がっていると自分でも気づかないままにイエス様っぽい発言をし、その行いをしちゃうみたいです。僕らの発言も行動も心の現れです。イエスはぶどうの木、僕らは枝です。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15.5)


今日、僕らの内側がイエス様を求めイエス様で満たされますように。求める人は必ず与えられ満たされます。イエス様が僕らの全てです。僕らの口も手足もイエス様の器官です。一つにされていきますように!




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